内容説明
源平の武将たちが貴族の間で政治的駆け引きを行うためには和歌は必要不可欠な知識であり、御家人を統治するための手段となった。武士とは何か。和歌とは何か。源平の武将たちが遺した和歌を通して、貴族から武士への時代の転換点を探る画期的な書。
目次
中々に言ひも放たで(源頼光)
木の葉散る宿は聞き分く(源頼実)
夏山の楢の葉そよぐ(源頼綱)
吹く風をなこその関と(源義家)
思ふとはつみ知らせてき(源仲正)
もろともに見し人もなき(同)
有明の月も明石の(平忠盛)
うれしとも中々なれば(同)
思ひきや雲居の月を(同)
またも来ん秋を待つべき(同)〔ほか〕
著者等紹介
上宇都ゆりほ[カミウトユリホ]
1968年大阪府生。お茶の水女子大学大学院人間文化研究科(博士課程)単位取得満期退学。現在、聖学院大学非常勤講師。主要論文「藤原定家考―天才形成の構造―」(新宮一成共著、日本病跡学雑誌)日本病跡学会奨励賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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ヴェネツィア
347
頼朝や義経、あるいは清盛ら源平の名だたる武将たちの歌を集める。平氏側から歌人として代表を選ぶなら、やはり平忠盛か。貴族政権の価値観と美意識が支配する中央政界に次第に平家一族の地歩を固めて行ったのがこの人である。一首選ぶなら「思ひきや雲居の月をよそに見て心の闇にまよふべしとは」(金葉和歌集)か。一方の源氏方からは源頼政。辞世歌「埋もれ木の花咲くこともなかりしに身のなる果てぞ悲しかりける」(覚一本平家)。宇治橋の戦いに敗れ、77歳で自害。その時の歌。歌そのものは新古今歌「庭の面は…」が上だが、辞世歌に感涙。2022/04/21
夜間飛行
183
頼光の《中々に言ひも放たで信濃なる木曾路の橋のかけたるやなぞ》…曖昧な言葉で誘いの橋を架けられた男は異郷の恋にのめり込むだろう。武士の歌は様々だが、多くの場合、朝廷という共同体に参加し力を及ぼそうとする意志が伝わってくる。忠盛の《うれしとも中々なれば石清水神ぞ知るらん思ふ心は》は、院の昇殿を許された喜びを歌いつつ(貴族の反撥により)内の昇殿は許されない不満を訴える。経正の《散るぞ憂き思へば風もつらからず花を分きても吹かばこそあらめ》は、僧侶歌人との交流や仏道修行を踏まえて自らの仏教観を高らかに表明した歌。2023/03/29
新地学@児童書病発動中
103
この本を読むまでは、西行を除いて、武将と和歌は結びつかない気がしていた。しかし、本書を読むと武士と和歌の深いつながりが理解できるようになった。武士の中にも優れた歌人がいて、彼らの歌は貴族が詠むものと異なったところがある。歯切れが良く明快で、独特の潔さを感じた。特に平家の武将の和歌は、滅んでいく自分たちの一族の運命を凝視した諦観に満ちたものが多い。独特の滅びの美学がしみじみと感じられた。「あるほどがあるにもあらぬうちに猶かく憂きことを見るぞ悲しき」(平資盛)2017/11/24
クラムボン
15
《うた》は源平の武将にとって雅な世界への憧れでもあろうが、朝廷で認められ、官位を得る身の助けでもあったようだ。特に貴族の下で這い蹲っていた頃の平忠盛や源三位頼政の歌には、疎外された男の鬱屈がある。忠盛は石清水の舞人を務め、白河鳥羽院から《院の昇殿》が許されるが…「嬉しさも中くらい」と詠むのは《崇徳帝の昇殿》が許されないからだ。数年後、五節の舞姫を献上しても昇殿は見送り。「心の闇に迷ふ」と詠む。しかし、若い時の鳥羽院への「明石のうた」は前途洋々だ。50首それぞれにドラマが有る。どの歌も疎かにできないな。 2022/02/10
邑尾端子
7
源平の武将達の名歌を紹介する本。しかし実際は、人物本人の実作よりも、『平家物語』や『義経記』や『源平盛衰記』等の作者や後世の戯曲者による創作と想定される歌が大半を占める。本人が詠んだわけではないが、その人物になぜその歌が仮託されたのかを考えていくと面白い。概ね時系列順になっているので源平期を振り返るのにもよいと思う。2015/05/21