内容説明
「母性のディストピア」という戦後アニメーションの想像力の袋小路に対し、押井守は情報論的転回で突破しようとした。しかし映像の20世紀からネットワークの21世紀へと時代が移行し、「母性のディストピア」の重力が増すなか、押井の挑戦もまた挫折した。戦後日本とアニメーションが見た夢の痕跡から、新時代を開く鍵は見つかるのか―富野由悠季との最新対談、語り下ろしの「2010年代の想像力」を追加収録した決定版。
目次
第5部 押井守と「映像の世紀」
第6部 「政治と文学」の再設定
富野由悠季はなぜ、いまだにアニメをつくりつづけているのか?―富野由悠季×宇野常寛対談
2010年代の想像力(宇野常寛インタビュウ)
著者等紹介
宇野常寛[ウノツネヒロ]
評論家。1978年生。批評誌「PLANETS」編集長。京都精華大学ポピュラーカルチャー学部非常勤講師、立教大学社会学部兼任講師も務める(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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ころこ
35
著者の身振りがいつも空回りにみえるのは、その射程が長すぎるから、だと思います。正確には、著者が思っているよりも実際は短く、振りかぶり力み倒しても、実際には遠くに行けない。でも、サブカル批評でそこまで遠くに行けなくても良いのではないかとも思います。本書を書く動機は、宮崎、富野、押井をひとつの本の中で書くのに不自然にならないようにということ以上ではないでしょう。それぞれ論としては十分な水準で充足して完結していています。巻末のインタビューの語りの方がサブカル論と同期しており、著者の等身大だなと好感を持ちます。2021/11/27
Hiroo Shimoda
11
我々は成熟できるのだろうか。箱庭の中で世界に繋がる夢を見続けるのか。匿名で石を投げる行為はまさに肥大した母性と矮小な父性の噴出なのか。2019/11/30
鳩羽
8
成長・成熟を目指しきることもできず、母性のディストピアという袋小路に陥る戦後アニメーション。情報論的展開でそこから抜け出そうとした押井守を紹介しつつも、映像の世紀からネットワークの世紀へと時代は移り、母性の粘度は高まるばかりで、虚構は現実に時代の糧となる想像力を提示できない。ディストピアの未来を捉えていたという意味で優れたアニメ作品だったのでは。これからの未来を想像するのに従来のアニメでは無理かもしれないが、むしろ人間自身がアトムの命題を背負うようになり、自らに重ねやすくなるかもしれない。2019/08/10
うさみP
8
拡張現実を予見しながら、映像に引きこもった押井守。虚構で現実を剥き出しにするゴジラの命題。子を産み続ける血生臭い父母の連続ではなく、知による冷たい鋼鉄の繫がりの可能性。百合が射程に入っていないのは何故?正すべきところは正しつつも、長すぎた戦後の歪みである「肥大化した母性と矮小化した父性(情けない父)」という使い古された言葉ではなく、「大きな母と小さな父(母強し)」と読み替えて自覚的に受け入れるのが大切なのでは?。これこそ鳥は重力に逆らって飛ぶのではなく、魚は陸に焦がれて泳ぐのではない・2019/07/29
しゅー
6
★★「Ⅰ」の富野由悠季に関する論考が山場だったのだな。押井守に関する著者の語り口は比較的、冷静だ。そして押井守との対比で論じられる『シン・ゴジラ』論が新鮮だった。しかし「母性のディストピア」と言う概念は批評としての切れ味は最高だったが、いざ現実世界に切り込もうとすると失礼ながら急になまくらになってしまったような気がする。読み終えて、別の著者が論じてた「われわれ日本人はヤンキーかおたくになるしか生きる道がない」と言う話を思い出す。結局は地理的もしくは興味の対象により分断された狭い領域で生きるしかないのかね。2026/02/10




