出版社内容情報
「私」が救われる「道」を知る
「念仏」「悪人正機」「他力」。法然、親鸞、唯円と語り継がれた『歎異抄』の教えは、なぜ人々の「拠りどころ」であり続けるのか。なぜ私たちは「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われるのか。その本質を宗教になじみのない人でも納得できるよう、可能な限り専門用語を排して「最短の道のり」で解説。巻末に『歎異抄』全文を特別掲載。
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
ひさしぶり
29
たまたま第2回目一部を目にする。正月を神様にお盆を仏様にクリスマスはキリスト教、加えて幼き頃は母にすがって生きる無節操な凡夫な自分と向き合う。〈念仏、悪人、他力、慈悲〉宿業の中にあっては本当の意味も分かってなかった。とても誤解の多いこれらの解釈を学ぶ。人が絶対絶命の時思わず口から出る「かみさま!」「おかあさん!」と同義語かなぁ、称名(念仏)「南無・阿弥陀仏」 巻末に『歎異抄』全文が掲載されていて、もっと読み込もうと思う。9月の放送まで。2022/07/17
加納恭史
19
「教行信証」は難しいので、東野圭吾の「ラプラスの魔女」でも読むかと思うが長いな。「嘆異抄」の入門でも読むかとこの本を読む。著者の阿満利麿さんは確か「観無量寿経」にとても詳しいので、「嘆異抄」にも当然に理解が深いのだろう。念仏を称えても喜びの心はなく、浄土に急いで行きたいという気持ちもない。このように訴える唯円に、親鸞は「私も同じだ」と答える。私も唯円と同じ「凡夫」だからこそ、阿弥陀仏の救済の対象なのだ、と言っている。このようなくだけた書き出しです。親鸞が法然の弟子となり、彼の教えを受け継ぐことから始まる。2023/12/14
GELC
12
人間の智慧には限界があり、自力では救われないというのは、今まで学んだことで理解できつつあると思うが、難しいのは「念仏さえ行えば大丈夫」ということと、「念仏が救われるための唯一の道」ということ。その中でも前者は、思いを定めることで「業報にさしまかせる」境地にたどり着ける道筋はおぼろげながら見えそうだが、後者はまだまだ納得ができない。集中して学びたくなってきた。(本当は直接説教をきいたりするほうが良さそうだけど、とりあえずはもう少し本を読みます…)2022/07/11
rockwave1873
5
自分自身は、何かあった時は「般若心経」を唱えているが、それは宗教的な想いではなく、一旦自分の心を落ち着かせ為である。自分は日本には豊かな自然を育む四季があると同時に、地震·火山噴火等の天変地異も多いことを考えると「自然宗教」に親しみを感じるのは自然なことだとも感じている。「宗教」は過去のある時点に発生した教えを守り維持することで成り立っているので「組織」とならざるを得ない。「組織」となった宗教に人は救えるのかと疑問に思う自分がいることをこの本は改めて気づかせてくれた。宗教を語るということは本当に難しい。2022/05/22
ネコハチ
3
Eテレこころの時代のTV放送より知る。 日本人の無宗教の歴史観にふれつつ、 「無宗教では解決できないような問題を解決する智慧を「歎異抄」から(阿満先生が)読み解いて行く」 「人生にはどうしても「大きな物語(阿弥陀仏)」が必要な場面がやってきます」 人生折り返し地点を過ぎた悩めるおとなに、この1行ささります! 2022/09/03