出版社内容情報
戦後75年が経ち、戦争の実像について最も説得力を持つはずの、直接体験者たちの「証言」が聞けなくなるという時代が、もうそこまで来ている。そんな時代を迎えても私たちは戦争という歴史を継承していくことができるだろうか?
できる、というのが著者の立場である。ただしそのためには条件がある。ひとつは、「語り手―聞き手」という一方向的な関係のありかたを、あえて批判的に見直すこと。もうひとつは、活字や語りのほかに、映像や遺品など、感覚に直接訴えかけてくるものを材料とし「メディア」と捉えて、積極的に意義を見出す立場に立つことだ。これらを前提として、「語り部なき時代」にどうすれば「戦争のリアル」をつかむことができるのかを探求するのが本書である。
著者はまず、戦争証言によくある「あの戦争」という言葉が「スルー」されていたことを指摘する。つまり、この言葉で指示される「戦争の実像」について、語り手と聞き手とがイメージを共有していないことが、どこかで感じられながらも不問に付されてきたことが、戦争の継承を不完全にしてきたのではないかと問題提起するのだ。
こうした「不完全な継承」の実例を、2005年以降爆発的に増加した戦争番組、とくにテレビドキュメンタリーの中で語られる「証言」の数々に見出す。そこではメディアで有名な雄弁な語り手も、訥々としか話さない無名の語り手も等しく、戦争が伝わっていないことに「もどかしさ」を覚えていた。戦後を振り返ってみれば、NHKを中心としてテレビドキュメンタリーにはさまざまな証言が現れていたが、共有できないためにそれを受け止められない「戦争を知らない子供たち」がつねに存在していた。
「語り」で伝えられないならどうするのか? 著者は第一人者として発掘してきた全国の「小型映画」、すなわち戦中の9.5ミリビデオに着目する。そこには戦時下のイメージに反する「充実した銃後の生活」が記録され、現代の感覚からは理解しづらい画面構成や人々の表情が見られるのだ。ここには「それを素材として語り合う」ことを誘発する何かがある。さらに、沖縄の平和祈念資料館とリニューアルしたばかりの広島の平和記念資料館とを対比し、前者において、遺品と米軍から買い集めた映像について「自ら考える」ように仕向けられた展示方法が効果的であることを見出す。こうして、小型映画の例と合わせて、視覚的メディアを材料として自ら考えることによる、戦争の実像把握の可能性が明らかになる。
そして、神奈川での戦争体験の語りの場、鹿児島での戦中事故の継承の場に継続的に参加することで、語り手に特権的な立場を与えず聞き手から疑義を出させ、証言間の齟齬を許容し、記憶の精確さよりも議論の自由を保証することなどの重要性を明らかにする。
こうして、記憶よりも映像などの記録を材料とし、一方的な語りよりも多方向的な議論の場を確保することが、これからの戦争の継承に有効であることを実証していく。戦争をはじめ事件や災害などさまざまな歴史の継承に重要な貢献をなす、類例のない提言の書となるだろう。
内容説明
戦後七十五年を迎え、戦争体験者の声が聞けなくなりつつある。しかしそもそも戦争の実相は聞く者へ伝わってきたのか?本書は語り手と聞き手との関係を問い直すことから始めて、「戦争のリアル」を捉えるための現代的方法を探る試みだ。膨大なテレビドキュメンタリー、若い世代の受け止め方の変遷、そして語りによる伝承を綿密に分析することによって「語る‐聞く」パターンの限界を浮かび上がらせたうえで、視聴覚メディアを題材に継承の場を作る条件を明らかにする。「アーカイブ」の創造的活用を実証する、類例のない提言の書。
目次
序章 「戦後」が終わる前に
第1章 戦争を「語る言葉」のもどかしさ―戦後六十年以降のテレビ番組から
第2章 「戦争を知らない子供たち」について考える
第3章 「空白」を埋める―映像で出会いなおす「あの戦争」
第4章 語り継ぐ条件―対話への階梯
終章 「戦後」の、その先を生きる
著者等紹介
水島久光[ミズシマヒサミツ]
1961年生まれ。東海大学文化社会学部広報メディア学科教授。慶應義塾大学卒業後、広告会社、インターネット情報サービス会社を経て、東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。専門は現代の映像メディア研究(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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