内容説明
全世界の欺瞞を呪詛し、その糾弾に生涯を賭け、ついに絶望的な闘いに傷つき倒れた“呪われた作家”セリーヌの自伝的小説。上巻は、第一次世界大戦に志願入隊し、武勲をたてるも、重傷を負い、強い反戦思想をうえつけられ、各地を遍歴してゆく様を描く。一部改訳の決定版。
著者等紹介
セリーヌ[セリーヌ][C´eline,Louis‐Ferdinand]
筆名。1894年、パリ西北方の都市クールブヴォワに生まれ、貧しさのなかで独学を続けて医師免状を得る。第一次大戦で騎兵軍曹として武勲をたて、復員後、国連事務局に勤め、各国を遍歴してから、パリの場末で医師を開業。1932年、本書で一挙に作家の名声を確立したが、反資本・反ユダヤ主義の立場からフランスの現状を痛罵した時事論集などのために、第二次大戦後、戦犯に問われ、亡命先のデンマークで投獄された。特赦で帰国したが、61年、不遇と貧困のうちに歿し、その墓石には“否”の一語だけが刻まれた
生田耕作[イクタコウサク]
大正13年(1924)、京都に生まれる。京大仏文科卒。京大名誉教授。平成6年10月死去
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感想・レビュー
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ヴェネツィア
380
上巻での空間移動は実に大きい。本書の出版が1934年であることを思うとなおさらである。物語の起点では、第1次大戦中のアルデンヌ方面、ドイツ軍との戦線である。フェルディナンは兵士としての参戦を余儀なくされているが、彼には英雄的行為はもちろん、国防の意識さえ極めて薄い。うまく捕虜になるか、傷病兵としての離脱を願っている。思想的にではないが、彼の性(さが)は根源的にアナーキーなのであろう。軍の後は「商」のアフリカ、「工」のニューヨーク~デトロイトへと移動してゆくが、いずれの地でも彼が主体的に関わることはない。⇒2021/11/12
ケイ
130
フェルディナンはどこまで旅して行くのだろう。彼の言うことは正直なだけでなく、正論だ。まず勇ましく思える戦争に行ってみて、なんで戦わなければいけないのか、目の前のドイツ人が憎いわけではないと思う。いっそおとなしい捕虜になった方がいいのかもと、偶然知り合ったロバンソンの主張に同意するも、手頃なドイツ兵には出会えない。人を殺すのが嫌だから、病院に入って戦場には戻らないようにする。きれいな若い女の人に安らぎを見出す。弱くてすぐに逃げたくなる。そう彼は正直で、それなのに糾弾されたとすれば、それはムルソーではないか。2015/10/14
ケイ
127
再読。フェルディナンの純粋さ。勇ましく西部戦線に向かい、撃ってくるドイツ兵に恨まれる理由に首を傾げる。パリでは可愛いアメリカ娘が好きになるが、恐怖でおかしくなった彼は連れていかれる。常に視線の先にあるものは、邪気のないcompassion。悼む気持が言葉にされていなくとも。そして作者セリーヌの知性。原文で使われる汚い言葉に正しい動詞活用。挟まれる機転。「プルーストという男は生きてるうちから亡霊みたいな人間で…」「アメリカで経済的に食事をするにはソーセージを挟んだ温かいパンを買いにいけばいい」2021/07/02
扉のこちら側
85
初読。2015年1163冊め。【85-1/G1000】フェルディナンの口調が「ライ麦畑でつかまえて」のホールデンを思い出させる。戦時下において、なぜ戦わなければいけないのかわからず、いっそ捕虜になろうと思っても敵に遭遇せず、戦線離脱のために病院に行くという上に、反戦というよりも世の中に悪態を尽きまくるというなんだかなあという主人公。それでも人間味があって、むしろ世の中の大半は彼のような人間だろう。私も。【第51回海外作品読書会】「夜の果てる日などありはしないのだ。」2015/11/28
NAO
66
勢いだけで志願兵となったフェルディナン・バルダミュ。だが、第一次世界大戦、ドイツの戦場で上官たちは腐敗しきっている。無力と倦怠に蝕まれたフェルディナンがどこまで逃げ回っても、どこへ行っても、いたるところに階級と差別があり、世界は欺瞞に満ちている。世界への人間への嫌悪をまき散らし、毒づいて毒づいて、彼はどこまで行くのか。2017/11/27