中公文庫<br> 東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学

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東洋哲学覚書 意識の形而上学―『大乗起信論』の哲学

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  • サイズ 文庫判/ページ数 176p/高さ 16cm
  • 商品コード 9784122039025
  • NDC分類 183.95
  • Cコード C1115

内容説明

壮大な構想による東洋哲学の思想的未来―。六世紀以後の仏教思想史の流れをかえた『大乗起信論』を、東洋哲学全体の共時論的構造化のためのテクストとして、現代的視座から新しく読み直し、分かりやすく説いた世界的碩学の迫力ある一書。

目次

第1部 存在論的視座(双面的思惟形態;「真如」という仮名;言語的意味分節・存在分節 ほか)
第2部 存在論から意識論へ(唯「心」論的存在論;「意識」(=「心」)の間文化的意味論性
「心真如」・「心生滅」 ほか)
第3部 実存意識機能の内的メカニズム(「覚」と「不覚」;「不覚」の構造;「始覚」と「本覚」 ほか)

著者等紹介

井筒俊彦[イズツトシヒコ]
大正3(1914)年、東京に生まれる。昭和12(1937)年、慶応義塾大学文学部卒業。昭和43(1968)年まで慶応義塾大学文学部言語文化研究所教授。翌年、カナダ・モントリオールのマックギル大学イスラーム教授、昭和47(1972)年、パリInstitut International de Philosophie会員。イラン王立哲学アカデミー教授を経て、昭和58(1983)年、慶応義塾大学名誉教授、翌年、日本学士院会員。平成5(1993)年没
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感想・レビュー

※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。

syaori

62
『大乗起信論』の哲学的思惟を辿ってゆく本。千態万状の現実世界は本質的には一であるという『起信論』の形而上学的構造を一部と二部で存在論的、意識論的に解体し読み直し、三部でそれが個人の意識の中でどう機能するか追う構成。いきおい三部は人間が本性の「清浄」性にいかに復帰するかの進展プロセスとなりますが、それは「覚」(真理)を求める心と妄心・煩悩とが縺れ合う「実存的自己形成」過程として捉えられ、真理を求め妄と真を行きつ戻りつするその行き方には、人間として生きるとは何かという問いの答えの一端が示されているようでした。2022/10/11

らい

12
ユング心理学では、意識と無意識、父性と母性、そういうものをあれもこれも矛盾的に統一していって自己実現を問うように感じていたが、起信論でも似たような原理を感じた。現象的「有」で過ごす限り覚と不覚の円環運動を繰り返し円錐的な頂点を目指すのが覚者だと締められる。始まりの分節と終点。もしかすると、自然科学でも一神教でも性質や背景が異なるだけで原理的には同じなのかもしれない、まったくの無知だがそんな予感がした。そしてあとがき池田晶子さんなのがまた良かった。2020/05/18

kanaoka 56

11
東洋哲学の真髄は言語を超えた境地にあり、その境地から言語領域を含む全領域を構造的に捉え直す所にある。その境地は意識と存在の0ポイントであり、空、無、絶対(神)、真如、道、等として仮名され、それは文化・伝統の異なる社会においても認識されてきた。 意識は、主客をもって世界を分節化し、言語はこれを固着化させる。意識と言語に塗れた進化の営みの記憶は、アラヤ識として遺伝のなかに蓄積されてきた。精緻な分節化と、それを認識するための膨大なエネルギー、これらは相まって積み上げ高められてきたのだろう。(続く)2016/12/31

roughfractus02

10
生きながら心身活動(カルマ)をオフにすると、五感や記憶の情報を集積した意識は実存へとシフトし、存在に触れる。存在論は、不覚から覚へのこの過程を逆に辿り、存在を主語にした万物の生成場面に人を導く。この立場から著者は、意識と存在の間に溝を見る唯識派と異なって『大乗起信論』が両者間に中間の場を設ける点に注目する。従来は意識の最下層とされる「アラヤ識」は、この書物では存在と相互浸透する中間状態とされる。著者の遺著となった本書は『大乗起信論』の二極の分岐の間を彷徨する独特の論理に沿って、覚と不覚が円環する生を描く。2021/01/25

MO

8
大乗仏教に関しては政治影響が大きいのではなから無視していたのだが井筒先生に意識〜と書かれると手に取らずにはいられない。が、難しすぎて一行も分かりませんでした。それでもなにかだいじなことがかいてある気がすると思って最後まで読んだ。例えわからなくても、分かりたい。そういう気持ちって大事だよな、自分偉いって思ったよ。2023/03/28

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