出版社内容情報
人間とは何か? 18世紀末にカントが発した問いを、若きフーコーが大胆細密に解き明かす。フーコー哲学の出発を告げる幻の傑作、遂に刊行!
目次
1 『人間学』の日付
2 前批判期とのかかわり
3 批判期後とのかかわり
4 使用=慣用の地平
5 心と精神―カント哲学の本源的事実
6 鏡のなかの反復―『純粋理性批判』と『人間学』
7 源泉・領域・限界―超越論哲学への通路
8 体系的、大衆的
9 『人間学』の位置
10 人間学的錯覚と二〇世紀の哲学
著者等紹介
フーコー,ミシェル[フーコー,ミシェル][Foucault,Michel]
1926~1984。20世紀のフランスを代表する哲学者。1960年代からその突然の死にいたるまで、実存主義後の現代思想を領導しつづけた
王寺賢太[オウジケンタ]
1970年生まれ。京都大学人文科学研究所准教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
roughfractus02
11
博士論文『狂気の歴史』の副論文として提出された本書は、特定の哲学者のモノグラフを書かなかった著者が、神や超越のような無限の否定として人間を有限とするのではなく理性の限界から有限性を引き出すカントの姿勢を、自らの思考に課していたかのような構成に思える。本書は体系的な3つの「批判」に比べ、大衆的で周縁的なカントの「人間学」を彼の超越論哲学の3要素「源泉、領域、境界」の「境界」に配し、「人間学」において「批判」が現れ、またはその逆も起こる様を辿りながら、経験の限界を言語によって拡張する諸科学への批判として示す。2024/12/12
hitotoseno
9
そこかしこにハイデガーを思わせる表現が忍びこんでおり、なんでぇフーコーも所詮ハイデガー一門なのかよ、と思わせておきながら、人間学の可能性をアプリオリな時間形式から散逸する(ハイデガーなら「頽落」というだろう)ところに求めるあたりから意趣返しをするようにハイデガーに反旗を翻し、そしてなによりハイデガーを超えるための観点をカントがすでに見出していたと分析する巧みな手練を見せられたからには、やっぱりフーコーってすげぇや、と結論付けざるをえない。フーコーが世間に出る前からすでにフーコーだったことを示す秀逸な一冊。2016/04/25
孔雀の本棚
4
Encounter 本屋で偶々。 Scopes 『人間学』は『批判』に対して、経験的な水準で反復。「私は何を知りうるか」「私は何をなすべきか」「私は何を望みうるか」であって「人間とは何か」に対する答えではない。無限の存在論、絶対者に妥協しない有限性の根拠づけ。 Unclear Next 本著でフーコーはハイデガーに対する異論を意識しているという。また、主論の帰着はニーチェ。20世紀の哲学。 Comments カントの参考のために読んだがいろいろ深堀りする契機を得た。2021/09/05
一郎二郎
3
人間という単純な表象を用いて永遠を思考し得るかのように考える超越論的錯覚。人間学は人間を普遍と具象を総合する存在とした。世界や神さえ人間において総合された。真理の根源は人間の持つ時間であった。しかし人間の経験性は無根拠で、批判哲学を反復する事しかしていない。人間に対する問いかけは、折り返されて世界に対する問いかけとなった。その際世界はその折り目に存在する。それは実は人間が中心から外れた縁だと言う事であり、錯覚であり、真理を失いながらも絶えず真理を呼び入れる運動であった。この自閉にニーチェが終止符を打った。2025/04/26
レートー・タト
3
再読。読み込めば読み込むほどフーコーがカントの『人間学』を読解した時に得た「〈人間〉の死」の直感と人間主義に対する抵抗としての思索が、最晩年まで一貫していることが明確になる。「人間をも無限をも解放するような、有限性の批判を考えることはできないだろうか」と考えたフーコーは、なんとその解放を最後にはキリスト教の倫理的実践に見出す。これは本書の最後にただ超人を据え置くのとは違うが、一見反ニーチェ的なそれはニーチェのキリスト教的倫理の捉え方よりも深い次元でニーチェの唱える不断の生成の問題を見出したのだと思われる。2011/01/04
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