内容説明
2世紀後半、五賢帝時代の最後を飾る皇帝マルクス・アウレリウスが即位した。弟ルキウスを共同皇帝に指名した彼に課されたのは、先帝たちが築き上げた平和と安定を維持することであった。だがその治世は、飢饉や疫病、蛮族の侵入など度重なる危機に見舞われる。哲学者としても知られ賢帝中の賢帝と呼ばれた彼の時代に、なぜローマの衰亡は始まったのか。従来の史観に挑む鮮烈な「衰亡史」のプロローグ。
目次
第1部 皇帝マルクス・アウレリウス―在位、紀元一六一年‐一八〇年(育った時代;生家;子育て;少年時代;成人式;帝王教育;ローマ人のフィロゾフィア;ローマ帝国の安全保障史;次期皇帝マルクス;ローマ人の一日 ほか)
著者等紹介
塩野七生[シオノナナミ]
1937年7月7日、東京生まれ。学習院大学文学部哲学科卒業後、イタリアに遊学。68年に執筆活動を開始し、「ルネサンスの女たち」を「中央公論」誌に発表。初めての書下ろし長編『チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷』により1970年度毎日出版文化賞を受賞。この年からイタリアに住む。82年、『海の都の物語』によりサントリー学芸賞。83年、菊池寛賞。92年より、ローマ帝国興亡の歴史を描く「ローマ人の物語」にとりくみ、2006年完結。93年、『ローマ人の物語1』により新潮学芸賞。99年、司馬遼太郎賞。2002年、イタリア政府より国家功労章を授与される(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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ヴェネツィア
417
五賢帝の時代。しかも、安泰に過ぎて歴史家たちも記述することがないとまで言うアントニヌス・ピウスの治世。そして、それに続く誰もが認める賢帝の中の賢帝、マルクス・アウレリウスの時代。にもかかわらず、これを「終わりの始まり」と位置付けた塩野七生の慧眼。最盛期にこそ衰退の予兆がほの見えていたと見るのである。塩野は言う「アントニウス・ピウスという皇帝は―中略ー優秀な官僚ではあっただろうが、-中略ー政治家ではなかった」。塩野のバイアスがかかっているのかもしれないが、マルクス・アウレリウスの治世もまた、何故それほど⇒2020/10/01
レアル
109
ローマの下り坂の始まりの巻。崩壊なんて、どの時代も平和の中から始まるのかもしれない。さて、こちらの巻は五賢帝の最後の一人、マルクス・アウレリウスの治世。この巻の前半は今までの復習ページだったので「そうだった!そうだった!」と思いだしながら読んだ。この巻は危機ながらもかろうじて帝国として維持が保たれてるが、次巻からは。。2014/04/04
ケイ
96
ハドリアヌスに後継者に指名されたアントニヌス・ピウスは20年以上にもわたってローマを安定的に治めた。自分の娘を、ハドリアヌスが次の皇帝にと決めた養子マルクス・アウレリウスに嫁がせる。アントニヌスの死後、元老院などの予想に反し、マルクスは血のつながりはないが同じくピウスの養子であった義弟のルキウスをともに皇帝につく。ローマの皇帝が変わるたびに起こるパルティアの騒乱やゲルマニア戦争に苦しみ、ルキウスは病死。帝国の衰退が始まる。2014/11/22
大阪魂
77
さあ、26巻まで拡大の一途やったローマ帝国もこれからは衰亡へ。ローマ最盛期といわれる五賢帝時代、最後の皇帝はマルクス・アウレリウス。皇帝につくやいなや、パルティア王国の侵攻、疫病、ゲルマン人の侵入による防衛線の破綻などなど苦難だらけ…こうした事態に柔軟に対応できたのがもともとのローマやったんやけど、前帝のアントニヌス・ピウスの時代に平和に慣れすぎて、柔軟さなくなるし、現場を知る人材育成もやってへんかったちゅうのが遠因やったみたい…平和な時代にいかにいざというときに向けた手うっとくか、これほんま大事やね…2020/12/30
優希
74
5賢帝の時代でありながら、衰亡史の序章であるというのが興味深いところでした。マルクス・アウレリウスが皇帝に即位し、平和と安定を引き継いでいくはずが、重なる危機が見え始め、帝国は衰退への道を歩み始めたのでしょう。2018/11/05