内容説明
天下の台所、町人の都と謳われる大坂、でも実は侍たちが真の主役だった!大坂城はどんな構造だったのか?奉行所では何が行われていたのか?大塩平八郎はなぜ決起したのか?「武鑑」や大坂町奉行所の絵図面、代官たちの日記、幕府にのこされた文書などの史料を駆使し、この町で武士がいかに生き、歴史を動かしていたのかを改めて探る会心作。
目次
はじめに―「武士の町」という問い
第1章 武士は何人いたか
第2章 『大坂武鑑』は語る
第3章 『浪華御役録』を読む
第4章 西町奉行役宅を覗く
第5章 大坂城の内と外
第6章 ふたりの与力
第7章 大坂暮らし
終章 「町人の都」と「武士の町」
著者等紹介
藪田貫[ヤブタユタカ]
1948年、大阪府生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士課程中退。現在、兵庫県立歴史博物館館長。関西大学名誉教授。専門は日本近世史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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rosetta
28
まず筆者が後書きで書いているような「寝っ転がってでも読める」読み物では全くなく、飽く迄も部外者、素人には退屈にも思える記述が続く論文である、そこを踏まえて。司馬遼太郎は、大坂の人口35万人のうち武士は東西奉行所の与力同心200人と書くがそれは大いに誤解で、大阪城内、代官、各藩の蔵屋敷の役人を武鑑(武士の紳士録)を数え上げ筆者は約8000人と推定する。大坂の絵図に武士の姿が描かれないのは、人出の多い祭りの時期等に各役所から外出禁止が言い渡されていたから。大坂が町人の都市と言われるのは明治以降の印象である2020/10/29
nagoyan
14
優。「天下の台所」大坂は「商人の都」として、江戸幕藩体制の封建的身分制国家の中に突如現れた、合理的経済人「町人」の闊歩するオアシス・楽天地。。。とは、言い切れないというのが、「武士の町」大坂という仮説から見た、もうひとつの大坂の姿。2010年刊行の中公新書が文庫化されたもの。大坂にも「武鑑」があった。それは実用本位に変容を重ね、町奉行の与力など住民の生活に近しい武士たちの情報に特化していった。江戸から大坂に来る武士たちの日常も。そして、彼らの江戸との比較した言説が「商人の都」大坂のイメージを生み出したと。2021/06/25
アメヲトコ
7
2010年中公新書刊、20年学術文庫より再刊。「天下の台所」イメージの根強い近世大坂を武士という側面から再考する試み。最初に司馬遼太郎をダシにしながら実際当時の大坂にどれくらいの武士がいたのかを緻密に計算するところ、大塩平八郎の時代を生きた町奉行の日記の読み解きは興味深く、最後に「町人の町大坂」言説の構築性を浮き彫りにするあたり、巧みな構成です。2020/12/11
huchang
3
大坂に武士は200~300人くらいだったという記述に「冷静に数えたらもうちょいおるんちゃう?」というまっとうな問いから始まったこの著作。結果として「江戸に比べたら少ないけど、あそこと比べたらどこも町人か農民の町やわなぁ」という結論に導く過程がとてもスマートで好感が持てる。終章の新しく建てたはずの徳川の大阪城が太閤はんの大阪城に、明治維新の歴史観は大阪を楠公びいきに染めていく過程はなんだか今の世相を見ているようで、ぞわっとする。ちなみに著者はちょっと片岡仁左衛門に似たイケオジです。お元気そうで嬉しい。2021/01/16
じぇろポーta
3
江戸期の大坂は数十万の町人に対して200~1500人程度(論者によって差異がある)の武士しかいない「町人の町」だった。そんな言説に対し実際はどうだったのか、大坂における武士の居住地、武鑑(大名旗本御家人のデータを載せた武家紳士録)の内容、大坂に赴任した幕府役人の日記などをもとに確かめていく。当時の随筆の豊かな「天下の台所」が大坂武士の拝金主義を助長し堕落させているという指摘が、町人主体の自由な都市のイメージへと読み替えられたのはなぜか。明治維新以降の価値観の大転換が「町人の都大坂」言説を確立させた。2020/09/29