講談社文芸文庫<br> 凡庸な芸術家の肖像〈下〉―マクシム・デュ・カン論

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講談社文芸文庫
凡庸な芸術家の肖像〈下〉―マクシム・デュ・カン論

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  • サイズ 文庫判/ページ数 528p/高さ 15cm
  • 商品コード 9784062902748
  • NDC分類 950.28
  • Cコード C0195

出版社内容情報

今なおラディカルで、創造的な批評の金字塔。下巻には『「ボヴァリー夫人」論』とを繋ぐ、工藤庸子氏による必読の長篇解説も収める。19世紀半ばから後半にかけて活躍し、アカデミー入会を果たしたフランスの作家マクシム・デュ・カン。現在では「フロベールの才能を欠いた友人」としてのみ知られる謎多き人物の足跡を丹念にたどり、フランス第二帝政期が残した歴史的、文化的痕跡を追う本書は、大作『「ボヴァリー夫人」論』とともに、21世紀のいまこそ読まれるべき書物である。

『凡庸な芸術家の肖像』第二部(承前)
XIV 素朴な政治主義者
XV 回想記作者の悲劇
XVI 犠牲者の言説
XVII 魔女とテロル
XVIII 性と権力
XIX いま一つの『狂気の歴史』
XX 密告者の誕生
『凡庸な芸術家の肖像』第三部
I 母と革命
II 臆病な話者は何を恐れるか
III 四輪馬車と鉄鎖
IV 足の悲劇
V 旅行靴と風見鶏
VI 帝国の狩猟地にて
VII 皇妃と人道主義
VIII カルタゴと晩餐会
IX 香具師と逸脱
X 図書館と劇場
XI 大衆化という名の事件
XII 通俗小説の時代
XIII ミイラと特権
XIV 警視総監との友情
XV 犠牲者の言説
XVI 打たれなかった弔電
XVII 葬儀のあとで
XVIII 凡庸な嫉妬の物語
XIX 敵意を誘発する装置
XX 黄昏──夕暮どきの言葉
『凡庸な芸術家の肖像』への終章
あとがき
解説  工藤庸子
年譜
下巻への註
書誌


蓮實 重彦[ハスミ シゲヒコ]
著・文・その他

内容説明

“凡庸”は人類にとっていささかも普遍的な概念ではなく、ある時期に「発明」された優れて歴史的な現実であり、その歴史性はいまなおわれわれにとって同時代のものだ―一八四八年の二月革命、ルイ=ナポレオンのクーデタ及び第二帝政への移行が、なぜ私たちの現実に影を落としているのか。スリリングな論考はマクシムの“凡庸”な生涯と交叉しつつ、大団円を迎える。芸術選奨文部大臣賞受賞。

目次

『凡庸な芸術家の肖像』第2部(承前)(素朴な政治主義者;回想記作者の悲劇;犠牲者の言説;魔女とテロル;性と権力 ほか)
『凡庸な芸術家の肖像』第3部(母と革命;臆病な話者は何を恐れるか;四輪馬車と鉄鎖;足の悲劇;旅行靴と風見鶏 ほか)

著者等紹介

蓮實重彦[ハスミシゲヒコ]
1936・4・29~。フランス文学者、映画批評家。東京都生まれ。東京大学仏文学科卒業。パリ大学にて博士号取得。東京大学教授を経て、東京大学第26代総長。1978年『反=日本語論』で読売文学賞、89年『凡庸な芸術家の肖像』で芸術選奨文部大臣賞を受賞、99年にはフランス芸術文化勲章コマンドールを受章する(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー

※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。

三柴ゆよし

15
「…主人公の非凡さへの確信こそが、まさしく凡庸さの叙事詩をかたちづくる」。ありきたりな文学史において、フロベールの裏切りの友人、ボードレールの献辞に名を残す編集人として一行程度の記述に収められるマクシム・デュ・カンという男の、これは決して伝記ではないし、厳密には評論と言えるものでもない。たまたまマクシムの名を冠されたひとりの芸術家の「肖像」に留まりながら、その表層から演繹される「凡庸」という歴史性、いまだわたしたちが彼と共有し続けている同時代の精神をあくまで迂遠な方法で浮かび上がらせようとする書物である。2020/10/30

しゅん

14
パリコミューンにも、精神病にも、監獄制度にも反応できない凡庸さにおいて、マクシムはマルクスともフロイトともフーコーともすれ違う。一つの制度に閉じこもっていることに気付かずに充足する作家の限界を、ここぞとばかりに暴いていく後半だが、その後には胸を打たれずにはいられない友情の姿が明らかになる。マスメディア勃興期と作家としての活躍期が重なってしまった男の悲劇を、誰も他人事として受けとめてはいけない。芸術に携わる人間全てにとって、間違いなく必読書。「凡庸さ」から抜け出そうとすることの「凡庸さ」を噛み締めるために。2017/12/31

しゅん

8
再読。本書が蓮實重彦にとっての『ボヴァリー夫人』なのではないかという指摘を見て、かなり納得した。「誰が彼(彼女)を笑えるだろう」というメッセージが伝わってくる読書体験であるあたりに。というか、『ボヴァリー夫人』の主役にはかなり冷淡な気持ちしか今まで持てなかったし、小説自体3回読み通しているのにあまり面白いと思えなかった(『ボヴァリー夫人論』は面白かった)。ちょっと読み方変わるかも。本書が連載終了後に二年半改稿を重ねたという記述を発見し、そうだよな、厳密さが要求される本だよなと思う。2021/10/08

hitotoseno

7
本書は結局蓮實重彦流の『ボヴァリー夫人』だったのかもしれない。蓮實曰く、書くことに終わりはない。それに終わりがあるとしたら、常に恣意的なものにならざるを得ない。『ボヴァリー夫人』はそういう小説だった。物語のクライマックスは間違いなくエンマの最期であるが、フローベールはあえてそこで終わらせず、夫シャルルの死、そして薬屋オメーの不可解な叙勲まで律儀に描いた末に『ボヴァリー夫人』をひとまず終わらせることにした。2020/11/03

amanon

4
上巻では、メディア社会の寵児的存在という印象を抱いたマキシムだが、下巻になるとその様相はかなり翳りを帯びてくる。ある程度時代を読み取り、そこでうまいこと辻褄を合わせていく才覚は持ち合わせているのだけれど、それ以上の何かが決定的に欠けている。それがまさに凡庸である所以なのか?それにしても痛ましいのが、親友ギュスターヴの死を巡って、まさに降って湧いてきたかのような醜聞。その汚名を背負いながらも、アカデミーの会員として名を連ね、その当時としては長寿を全うしたマキシムの心境はいかに?新たなマキシム論が期待される。2015/07/30

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