出版社内容情報
斎藤 慶典[サイトウ ヨシミチ]
著・文・その他
内容説明
東洋哲学とは何か。インド・中国・日本の思想を指しているのか。井筒俊彦は個別研究の枠を超え、中近東やロシア、東南アジアにも視野を広げた全東洋的思想の根底にある哲学をつかみ、拓いていく。「ある」という事態の最深層に仏教哲学の「アラヤ識」を見届け、「空」と「無」を巡ってイスラーム哲学から現代思想までもが渉猟される。言語哲学者、イスラーム哲学研究の権威・井筒が生涯をかけた「世界的な視野を具えた新たな哲学」はどの地点に到達したのか。その哲学的営為の総体を受け止め、更に先にある問題を見極める。
目次
序章 井筒「東洋」哲学
第1章 表層/深層(表層から深層へ;深層から表層へ;大地と理性―ロシア的人間)
第2章 空/無(「空」の徹底;空と無;砂漠と死―ジャック・デリダ)
第3章 “いま・ここで=現に”(「本質(マーヒーヤ)」と「存在(フウィーヤ)」
“いま・ここで=現に”
「入〓垂手(にってんすいしゅ)」)
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
じんぶんのび太
2
井筒を主とした東洋哲学が体系的に纏めており、また井筒が問題視しなかった存在と無の偶有性を追求する。井筒の存在喚起(分節1→無→分節2)において、重要視されるのは絶対無分節から分節への〝移行〟である。しかし、無から〝即時そのまま〟移行する存在はそれほどまでに必然なのかと著者は問う。「ある=存在」か現にそのようにして「ある」のは、もはやいかなる根拠もなく、〝そもそもそれはなくてもよかった〟のである。世界はなぜかたまたま存在しているという偶有性を認識し、失われたものを失われたものとして無に差し出す態度を説く。2021/02/23
Go Extreme
1
宗教と存在の哲学: バスターミーー「独在性」を提唱・「ある」と「ない」の関係探究 思考の限界と「無」: 「ない」ことについて知ることができない デリダ: 東洋哲学は「無」に向かう思考持たず デリダは意味の解体を続けた 現実の構造と「存在」: 井筒は「現象」が「存在」の根本とし「私」と「存在」の同一性強調 無分節ー: 絶対無は存在を生み出す活力を秘める 存在の充溢とロシア文学: 井筒は「自然の力」を「存在の過剰」と表現 共同体と死の概念: 「無」は共同体の根本的な紐帯であり「死」と結びつく2025/02/11
arisa
1
一切の存在の否定として完結した「無」と無限の可能性に開かれた気配を包み込む「空」を見方の転換として区別すべきではないか、という論点は個人的な疑問と一致していて興味深く読んだ。(空白のキャンバスに対して「何も描かれていない」と見るか、「何にも染まりうる空白の物質が充満している」と見るか、みたいな) p155「いずれかの安住の地に我が身を落ち着けることはすでに、そこから他者を排除することに等しいのだ」対象を「それ」として同定することは暴力を伴い、着服と思考停止であろう。箴言。2022/04/05
原玉幸子
1
本書で、深層と表層、分節、観照、無と空、本質、存在等で解説されるインド哲学からイスラム教に相通じる構造に就き、シントピカルに理解が深まった気になり良かったです。その構造(のイメージ)は、其々の宗教や哲学の用語や定義が異なるだけで同質のもの、つまり、「東洋哲学は宗教と密接な繋がりがある」との実感です。そして、深層と表層の関係をドストエフスキーや松尾芭蕉の作品を例に「詩人の感性」の芸術で語るところが、まるで東洋発の哲学、宗教、文学を融合した読み解きで、凄いです。興味深く読みました。(◎2018年・春)2020/03/06
こずえ
1
井筒氏の意識と本質に関する解釈本といったところ。意識と本質の感想で書いたがあれは必要な知識が相当にあるのでこういう解釈本があるとよい。