鉞子―世界を魅了した「武士の娘」の生涯

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  • サイズ B6判/ページ数 254p/高さ 20cm
  • 商品コード 9784062183185
  • NDC分類 289.1
  • Cコード C0095

出版社内容情報

欧米では『武士道』より有名な、日本人により英語で書かれた日本人論『武士の娘』。司馬遼太郎が一読絶賛した、著者・杉本鉞子の生涯あの司馬遼太郎がその存在を知らず、一読して『福翁自伝』にひけをとらぬ内容、と驚嘆した自伝がある。
1925年(大正15年)、アメリカで無名の日本人女性が英語で書き下ろした『武士の娘』が刊行され、その年のベストセラー・リストに載った。『グレート・ギャツビー』と並ぶ売れ行きで、異例の8万部が世に出た。
著者・杉本鉞子は明治5年生まれ。父は長岡藩の筆頭家老で、司馬遼太郎の『峠』の主人公・河井継之助と幕末に対立し、藩の役職を追われたいわば没落士族である。維新後は、いわゆる武士の商法から零落する。
それにもかかわらず、鉞子は厳しい教育を受け、10代で東京へ出てクリスチャンの学校へ通い英語を身につける。卒業後、浅草で教職につくのは、ちょうど樋口一葉が同地に移り住む頃だった。
縁あって、アメリカ中部で美術商を営む杉本松雄に嫁ぐのが明治35年。しかし、42歳で寡婦となった鉞子は、二人の娘を養育しながらアメリカにとどまる決意をする。
生涯、彼女をサポートしてくれたアメリカ人女性との邂逅。食べるためにはじめた新聞・雑誌への投稿が、編集者の目に留まり一冊となる。それが『武士の娘』だった。ニューヨークへ移り住んだときには、コロンビア大学の教壇で日本語と日本史を、日本人女性としてはじめて教えた。
戦争をはさみ、『武士の娘』以降3冊の本を書いた鉞子は、昭和25年に息をひきとるまで日米の架け橋となった。アメリカでは有名人、日本では無名―忘れられた杉本鉞子の一生を描く。
ちなみに『武士の娘』は、現在もちくま文庫で、順調に版を重ねている。かつ、昨年鉞子のアメリカ時代の書簡が発見され、地元・新潟の会津八一記念館で展示されている。

序 章  エツ・イナガキ・スギモト
第一章 幕末維新に翻弄される父と娘
第二章 戊辰戦争と明治の稲垣家
第三章 婚約、そして東京へ
第四章 空白の五年間
第五章 アメリカへの旅立ち
第六章 フローレンス・ウイルソン
第七章 帰国
第八章 賞賛された「不屈の精神」
第九章 協力者の死と戦争への道
第十章 鉞子が遺したこと
終 章 黒船(The Black Ships)


内田 義雄[ウチダ ヨシオ]
著・文・その他

内容説明

文豪を驚嘆させた自伝を書いた杉本鉞子。それは『グレート・ギャツビー』に比肩するベストセラーだった。戊辰戦争で河井継之助と対立した家老の娘・鉞子は、東京で教育を受け、結婚のため海を渡った。英語で書かれた日本人女性の自伝『武士の娘』になぜ世界は注目したのか。

目次

序章 エツ・イナガキ・スギモト
第1章 幕末維新に翻弄される父と娘
第2章 戊辰戦争と明治の稲垣家
第3章 婚約、そして東京へ
第4章 空白の五年間
第5章 アメリカへの旅立ち
第6章 フローレンス・ウイルソン
第7章 帰国
第8章 賞賛された「不屈の精神」
第9章 協力者の死と戦争への道
第10章 鉞子が遺したこと
終章 黒船(The Black Ships)

著者等紹介

内田義雄[ウチダヨシオ]
1939年新潟県長岡市生れ。県立三条高校、東京大学文学部西洋史学科卒業後、62年NHK入社。新潟放送局、報道局外信部、サイゴン・ニューヨーク特派員、『ニュースセンター9時』編集責任者、スペシャル番組プロデューサーなどを歴任。96年退職(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー

※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。

鉄之助

228
『武士の娘』の当時の時代背景、原作者の人となりがよくわかる好著だった。内田義雄はNHKプロデューサーで、きめ細かい取材力が際立っている。なぜ、大正末期に米国で出版された『武士の娘』がベストセラーになり、杉本鉞子がキュリー夫人などと並ぶ「著名女性5人」に選ばれたのかが面白かった。当時のアメリカは、禁酒法の制定と挫折、国際連盟への加盟拒否(ウィルソン大統領に議会が反発)など「アメリカ理想主義」への幻滅感が社会に充満していた。そこへ「敗れても誇りを失わない」武士の娘の生きざまが、アメリカで支持されたのだという。2023/08/30

AICHAN

42
図書館本。鉞子の「鉞」はマサカリのこと。こんな凄まじい名前を付けられたのは、越後長岡藩の元家老(河合継之助の政敵)の娘。鉞子は明治5年、長岡城下で生まれた。14歳で米国在住の日本人と婚約させられ、明治31年に渡米し結婚し、長年、米国で暮らした。そして『武士の娘』を書き出版した(大正14年)。その自伝をもとに鉞子の生涯に迫る書、なのだが、結果的に『武士の娘』の解説書みたいになっている。『武士の娘』は欧米人を魅了したのだが、それは日清・日露戦争で勝利した日本人というものについて新しい視点を鉞子が提供したからだ2019/06/07

Gummo

13
1925年(大正14年)、ある日本人女性の自伝『武士の娘』(原題:A DAUGHTER of the SAMURAI)が米国で出版され、ベストセラーとなった。彼女の名は、杉本鉞子(1873-1950)。越後・長岡藩の筆頭家老の家に生まれた彼女は、青山学院の前身校で英語などを学んだ後、結婚のため渡米。夫と死別後文筆業に励み、のちにコロンビア大学初の日本人講師にもなった。武家の娘としての矜持とキリスト教的な使命感、米国の開放的精神が見事に一つの人格として結晶した印象。彼女を支えた米国の友人もまた素晴らしい。2013/07/26

よし

9
「武士の娘」で分からなかった謎に迫ってくれた。戊辰戦争で、長岡藩の河井継之助が「武装中立国」をめざして、結果的には、朝敵となって北越戦争を始め、敗退する。そのときの筆頭家老が稲垣平助・‥鉞子の父。平助は、「恭順こそ、藩を救う道」との信念で河井と対立する。しかし、「裏切り者」として、その後非業な生涯を送るのである。司馬遼太郎の「峠」で、河井はヒーローのように思っていた。平助の「恭順」こそ、正しい道だったと、思いを新たにした。鉞子にとって.父は、「己の信じる道を歩む孤高の人」だった。まさに、「武士」の娘!2016/08/04

都忘れ

8
読み友さんに教えられて読んでみた。長岡藩の家老で戊辰戦争に翻弄された父を間近に見てきた稲垣鉞子が書いた「武士の娘」は筋の通った凛とした生き方が印象的だった。この本の背景にあるものが丹念な取材で明らかにされる。当時のアメリカの情勢やご維新後の日本の状況、敗者の側となった者たちの次にかける思い、東洋の島国から単身船で異国へ渡る勇気と決意、アメリカで手を差し伸べた人々のことなど、おそらく資料の少ないなかよくぞここまで、と感銘した。もっとたくさんの人に知ってもらいたい人物と思う。2023/09/03

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