ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記―1930‐1932/1936‐1937

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  • サイズ A5判/ページ数 334p/高さ 22cm
  • 商品コード 9784062129572
  • NDC分類 134.9
  • Cコード C0010

出版社内容情報

真の信仰を希求する魂の記録!
死後42年たって新発見された幻の日記

『論考』から『探究』へ―大哲学者が書き残した、自らの思考の大転換、宗教的体験、そして苛烈な内面の劇!“隠された意味”は何か!?

私の本『論理哲学論考』には素晴らしい真正の箇所と並んで、まがい物の箇所、つまり、言ってみれば私が自分特有のスタイルで空所を埋めた箇所も含まれている。1930.5.16
真の謙虚さとは、1つの宗教的問題である。1930.10.18
私はすべてを自分の虚栄心で汚してしまう。1931.5.6
人は職人の比喩に惑わされているのだ。誰かが靴を造るというのは1つの達成である。しかしいったん(手元にある材料から)造られたなら、靴はしばらくの間は何もしなくても存在し続ける。しかしながら、もし神を創造主と考えるのなら、宇宙の維持は宇宙の創造と同じくらい大きな奇跡であるはずではないのか、1937.2.24――<日記本文より>

『論考』がウィトゲンシュタインにとっての原罪であり、それを克服するためにこそ、この日記が書かれたのだという言葉に、おそらく多くの読者が驚き、いぶかしがられることと思う。――<訳者解説「隠された意味へ」より>

ル?トヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン[ル?トヴィッヒ ウィトゲンシュタイン]
著・文・その他

イルゼ・ゾマヴィラ[イルゼ ゾマヴィラ]
編集

鬼界 彰夫[キカイ アキオ]
翻訳

内容説明

死後42年たって新発見された幻の日記。『論考』から『探究』へ―大哲学者が書き残した、自らの思考の大転換、宗教的体験、そして苛烈な内面の劇!真の信仰を希求する魂の記録。

目次

第1部 一九三〇‐一九三二
第2部 一九三六‐一九三七
コメンタール
隠された意味へ―ウィトゲンシュタイン『哲学宗教日記』(MS183)訳者解説

著者等紹介

ウィトゲンシュタイン,ルートヴィッヒ[ウィトゲンシュタイン,ルートヴィッヒ][Wittgenstein,Ludwig]
1889年、ウィーンで、オーストリア有数の富豪の家に生まれる。1912年、23歳にして、論理学を哲学的に研究するため、突然ケンブリッジ大学のB・ラッセルのもとをたずねる。以来、1951年に死去するまで、彼の生涯は、哲学的思考に捧げられた。1914年、志願兵として、第一次世界大戦に参加。最前線の戦闘を経験する。その間、生前に、出版された唯一の著書となる『論理哲学論考』を執筆。1922年、ラッセルの序文を付して、英訳とともに刊行。その後、一時は田舎の小学校教師をつとめたが、1929年、ケンブリッジ大学に復帰。講義を担当した。1946年、後期の哲学とされる『哲学探究』第一部が完成する。1949年には、『探究』第二部完成。1951年、死の二日前まで、『確実性の問題』を執筆した

鬼界彰夫[キカイアキオ]
1954年生まれ。筑波大学助教授。専攻は、言語哲学、ウィトゲンシュタイン研究(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。

感想・レビュー

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ころこ

36
死後の日記に何かの発見があったとは軽々しく言えません。ふーんというのは幾つかありました。研究者だとウィトゲンシュタインの信仰に着目するのかも知れませんが、はっきり言ってウィトゲンシュタインは宗教から最も遠い人というのが一般読者の受け止めでしょう。宗教なき時代に信じる(信頼する)という行為が辛うじて成し得るのがウィトゲンシュタインのテクストであり、その中に人間臭さを暴きかねない本書は入ってこない。別に知りたくないなということも多いのではないでしょうか。2020/09/20

踊る猫

28
自らの哲学を体系化して語った『論理哲学論考』『哲学探究』と比べると、当たり前だが完成度はそう高いものではない。だが、レアな形で(時にこちらが人生/実存の問題に引き寄せて甘えて読もうとする、その弱さを許すような形で)開陳される葛藤の記録はなかなか息詰まるものがある。千葉雅也がツイッターで書いている寸言に似たものにも思われた。非生産的な戯言に堕すことを恐れず、自らのクリアな思考を保つための「便秘」解消の作法として、ともあれ書く。時代に翻弄されて生きているのに同時代のことを殆ど書かず内向きなのもまあご愛嬌だろう2020/01/07

fishdeleuze

26
『論考』は虚栄の上に立てられた原罪的建築物であり、『探求』に至るまでの重要かつ謎の多い時期の日記をもとに、一人の人としてあるがままの状態にたどり着くまでの記録。この日記はおそらく公開を前提としていなかったもののようだ。重要な日記なのだろうが、個人的にすぎる。痛ましささえ感じる。厳しい自己省察。凄まじい孤独。宗教的思索と体験。まさに導かれていく様子が描かれている。ウィトゲンシュタインにとって、生きること、宗教的であること、哲学をすること、書くことは一つなのだと感じた。2013/07/04

吉野ヶ里

24
《一つの発見は偉大でも卑小でもない。それが我々に何を意味のかが大事なのだ。》《人間は誤って偉大さと意味がその行為様式に宿っていると信じるのである。そしてこの信念は、大激変により価値の転倒が起こるときに初めて、つまり本当の熱情が別の行為様式に宿るようになって初めて馬鹿げたものとなるのである。》《「当たり前だが、これらの古い紙幣は無価値だ」と人が言うようになるまでは、古く、今や無価値となった紙幣が流通し続け、まったく誠実というわけではない人々によって、偉大で意味のあるものの代わりとして使用されるのである。》2016/06/13

あなた

16
「またオナニーしてしまった」ウィトゲンシュタインはオナニストとして思春期の少年のような苦悩をみせる。あのたえず憑かれたように戦線の最前線におもむき続けたタナトスをエロスに反転する人間が。もちろん思春期のような失恋の悩みにも彼はいまたちつくしてる。彼はキスをせまり拒まれふられようとしてるのだ。言説ゲームはそう簡単に機能はしない。だからこそ、いとおしい2010/07/16

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