目次
第1部 固有名をめぐって(1970年=昭和45年―近代日本の言説空間;大江健三郎のアレゴリー―『万延元年のフットボール』;村上春樹の「風景」―『1973年のピンボール』)
第2部 終焉をめぐって(同一性の円環―大江健三郎と三島由紀夫;歴史の終焉について;死語をめぐって;歴史と他者―武田泰淳;小説という闘争―中上健次;死者の眼―森敦;漠たる哀愁―阿部昭;近代の超克について―広松渉)
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ドワンゴの提供する「読書メーター」によるものです。
ころこ
30
第1部『固有名をめぐって』大江健三郎と村上春樹の小説における固有名の意味について論じています。村上の小説において固有名が排除されている意味は分かりやすい。他方で、先に論じられる大江論におけるタイプ名による固有名の排除は分かり難い。後にある村上論を読み合わせて、ようやく腑に落ちてくる感じです。大江がアレゴリカルに固有名に固執するが故の固有名の排除を、村上が風景の様なイロニーの現代的実践を、両者が対となって尚、解消されない固有の地点がある。村上論の後に、更に固有名を使うようになったその後の大江作品を円環と終焉2021/01/13
やまやま
13
哲学人文学とは遠い人生を歩んできたため、評論の中の単語を著者とは違う思い込みで理解したつもりであったことを評者は自省します。本書タイトルで哲学用語としてのENDの意味合いがあるのだ、というあとがきがすこし腑に落ちるようになったのは進歩なのかなと思いつつ、興味深かった点は他の方の書評でも指摘されているように固有名を作品に使った瞬間で、その対象には交換不能性及び歴史性が生じてしまうという指摘でした。例えば個体の示唆は識別番号でも可能ですが、固有名詞の「意味」が私たちに交換不能を感じさせるという寓意です。2021/02/09
Z
13
1989年の文芸批評集。大江健三郎の『万延元年』(おそらく近代文学の最高峰)の分析の鋭さが白眉かと思う。こんなことまで読んでいなくても面白かったが、こんな深い思想が隠されていたとは思ってもみなかった。明治の革命以来、国内的に国権ー民主、対外的に 西洋派ーアジア派の対立があったが、西洋国権に脱亜論、ブルジョワ近代、西洋民権にマルクス主義、アジア国権に帝国主義、アジア民権にアジア主義を置き、日本の近代の構図を背景に、大江健三郎は小説組み立てていたという。論集で要約不可だが、随所に知的な考察、知見が散りばめら2018/03/14
またの名
12
「(ちなみに私は、三島由紀夫が実際に死ぬまで、彼のいっていることを「冗談」だと思っていた)」と三島をお笑い芸人扱い。二百年前の年も数えられない暦としての機能性ゼロな元号の一つが終わる際に著者が軽く書き込んだその問題は、国木田独歩から村上春樹やポスモダに至るイロニー問題へ膨らむ。歴史は終わったとか人間は死んだとか述べ未だ歴史や人間を信じる者を上目線で侮蔑し一切が無意味な空虚と知りながら空虚と遊ぶイロニー、他者と違って自分の思い通りに動くリプレイ可能な「マシーンへの愛」を持つロマン派は、一度も終わらなかった。2019/07/27
武井 康則
9
終焉とは昭和の事。昭和が終るに当たって、年号記載から西暦記載へと変化したことから昭和を解説する。昭和文学とは戦前までで、昭和35年になると60年代、その後は70年代と、昭和を冠さなくなる。昭和45年、70年は三島割腹の年であり、その動きは明治の2,26を模したものだ。明治と戦前昭和、戦後昭和の歴史を並べてその対称性を指摘し、文芸人として三島、その対称としての大江、またその対称としての村上春樹を分析していく。後は同時期に雑誌に発表された同趣旨の評論であり、大江について何度か言及し直されている。2025/06/12




