内容説明
本書は〈他者〉あるいは〈外部〉に関する探究である。著者自身を含むこれまでの思考に対する「態度の変更」を意味すると同時に、知の領域に転回をせまる意欲作。
目次
第1章 他者とはなにか
第2章 話す主体
第3章 命がけの飛躍
第4章 世界の境界
第5章 他者と分裂病
第6章 売る立場
第7章 蓄積と信用―他者からの逃走
第8章 教えることと語ること
第9章 家族的類似性
第10章 キルケゴールとウィトゲンシュタイン
第11章 無限としての他者
第12章 対話とイロニー
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感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
踊る猫
36
柄谷行人を読むと、確かに何かつかめたような気持ちになる。でも、それははかなく終わる。たぶん柄谷行人は(坂口安吾やウィトゲンシュタインと同じで)「考えるヒント」を出す性格を保持しているのだろう。彼の思考が忠実にヴィヴィッドにトレースされたこの本を読むとそうした「ヒント」をつかめて、たしかに何かを得られたように思える。だが、それは「ヒント」にすぎない。そこから単独者として何か自分の哲学なり文学なりを始める存在は他でもない、柄谷のテクストを読んでしまった自分なのだ。その主体性を再確認して読んでこそ味が出る1冊だ2023/09/06
ころこ
35
以前読んだときに、もっと一文一文こだわって読み、フッサールだ、デカルトだとその都度詰まっていたものです。コミュニケーションの重要性を突き詰めると、その不可能性から思考せざるを得ない。ウィトゲンシュタインの『哲学探究』の前半にある石工の親方と弟子の喩えから引いてきています。なぜコミュニケーションが重要かというと、誰もが知っている積極的な一律の効用よりも、偶発性によって生み出される剰余に創造性をみているからです。そこで、マルクスの商品交換とその剰余(贈与)が出てくる。重要人物はこの二人だけです。尚、著者はウィ2020/12/30
踊る猫
28
ずっと柄谷行人を誤解していたのかもしれない。カントの「物自体」という、私たちの認識しえない存在を作り出して整理する思考を批判して「他者がいない」と語るところにショックを受けた。「神」や「他者」といった人知を超えた存在を「それはそれとして」「そういうのがある」と片づけるのではなく、具体的な手触りを確かめようとする。だからコミュニケーションにこだわる。「ウィトゲンシュタインはいいこと言ってるな……」という軽いエッセイとして書き始められたはずの『探究』が、かくも繰り広げられて「論考」になるとは。実にスリリングだ2020/06/29
chanvesa
26
「私に言えることは万人にいえると考えるような考え方が、独我論なのである。独我論を批判するためには、他者を、あるいは、異質な言語ゲームに属する他者とのコミュニケーションを導入するほかない。」(12頁)、「ウィトゲンシュタインは、≪他者≫を、『われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人』とみなしている。」(49頁)。「教える」ー「学ぶ」という意志的な関係、極論で言えばヘレン・ケラーとサリヴァン先生が水という言葉を知る有名なプロセスまでが他者との関係かもしれない。これは相当な覚悟が必要な関係性であろう。2018/09/13
しゅん
19
一種の他者論として展開していくが、対話可能な他者など他者ではないというのが本書の一貫した立場だ。言葉を一切共有しない外国人や子供のような、事前に対話可能性を持たない対象こそが「他者」であり、そういった他者性を念頭に置いてはじめてヴィトゲンシュタインもマルクスもドストエフスキーも豊かな意味を持つ。特にキリストをキリスト教世界とは分離した徹底的な他者として考えるキルケゴールの態度は柄谷の筆の上でより輝いているように感じる。個人的には、言葉は通じるにも関わらず対話が一切できない微妙な他者の方が興味深いけど。2017/06/03