内容説明
わたしが一番きれいだったとき、わたしの国は戦争をしていた。『昭和二十年夏、僕は兵士だった』の著者が描く。10代、20代の女性たちの青春。
目次
実らないのよ、なにも。好きな男がいても、寝るわけにいかない。それがあのころの世の中。それが、戦争ってものなの。(近藤富枝)
空襲下の東京で、夜中に『源氏物語』を読んでいました。絹の寝間着を着て、鉄兜をかぶって。本当にあのころは、生活というものがちぐはぐでした。(吉沢久子)
終戦直後の満洲、ハルビン。ソ連軍の監視の下で、藤山寛美さんと慰問のお芝居をしました。上演前に『インターナショナル』を合唱して。(赤木春恵)
はじめての就職は昭和二〇年春、疎開先の軽井沢。三笠ホテルにあった外務省の連絡事務所に、毎日、自転車をこいで通いました。(緒方貞子)
終戦翌年の春、青山墓地で、アメリカ兵から集団暴行を受けました。一四歳でした。母にだけは言ってはいけない。そう思いました。(吉武輝子)
薔薇のボタン―あとがきにかえて
著者等紹介
梯久美子[カケハシクミコ]
1961(昭和36)年熊本県生まれ。北海道大学文学部卒。編集者を経て文筆業に。2006(平成18)年、初の単行本である『散るぞ悲しき硫黄島総指揮官・栗林忠道』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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yoshida
168
「昭和20年夏、僕は兵士だった」の対になる作品。いわゆる青春期を戦争と共に過ごした5名の女性のルポ。戦局が悪化する中の銃後の生活。空襲で街が焼かれ自分が生きているのが不思議となる心情。荒んでゆく人々の心と、それが顕れる社会の様子を興味深く読む。特に東京で働きながら日々を過ごした吉沢久子さんの日記と回想に自分の知らない当時の一面を見る。赤木春恵さんの満州からの引き揚げの記録。関東軍の慰問劇団だったため、辛くも軍家族の列車に乗れた幸運。発疹チフスからの奇跡的な快復。苦難の引き揚げ。忘れてはいけない記録がある。2018/03/18
ころりんぱ
38
戦時中に青春時代を送っていた五人の女性の証言。その中で赤木春恵さんは劇団員として満州に慰問に行っていたさなかに終戦を迎え、日本に引き揚げて来るまでの過酷な生活について語っているが、あの金八先生の校長、渡る世間のお姑さんが…あぁ、そうだったのか、と思うと、戦争が恐ろしく身近に感じられた。また、戦後14才で米兵にレイプされたという方のその後の生き方は簡単に大変だった、わかる、と言えるものではない。ただ、語ってくれる人がいて、それを感じ、考えられる事はありがたいことだと感じる。女性の強さを感じる作品。2014/03/09
ちゃんみー
18
赤木春江さんって、金八先生のイメージしかなかったんですが、戦時中はとても大変な思いをされていたんですね。当時の人たちは誰もが大変で青春を謳歌するなんてことはなかったんだろうと思うと、今に生きていることに感謝するしかないじゃないですか。戦争に駆り出された男の人だけじゃなく女性も生きていくのに必死だったんだろうと思います。2024/04/12
☆エンジェルよじ☆
17
戦争に関する取材の中で作者がインタビューをした女性は自身がどう生きたかではなく女性達から見た男達の姿。それは映画や小説でも同じである。では兵士達と同じ年代の独身女性達は何を思っていたのか?「戦争ってねいっぺんにがらっと変わるわけじゃない。じわじわ、じわじわ来るんです。」「国家の戦争が終わっても個人の戦争はいつまでも終わらない」「女の戦争は男の戦争が終わった後で始まる」一つの価値観を絶対的なものとして押しつけ若い人達を死に追いやることに進んで手を貸してしまったと教職を去った女性教師の決断に心を打たれた。2011/08/06
mawaji
6
近藤富枝氏に話を聞きたいと思うようになったきっかけとなった石内都「ひろしま」にまつわる導入部、竹槍訓練をやりながらもこんなことやってても役に立たないと虚しく感じた吉沢久子氏、戦争のために親子の愛情をゆがめてしまったのではないかと罪悪感を感じる赤木春恵氏など、生身の若い女性たちの目を通して見た「あの時」の話の数々、とても興味深く読みました。「女性には男性と違うサイクルがあるのだから、あせって目標を決めるよりも自分のサイクルを生きながら長期戦で構えた方がいい」という緒方貞子氏の言葉に励まされる人も多いのでは。2015/09/02