角川選書<br> 「異形」の古墳―朝鮮半島の前方後円墳

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角川選書
「異形」の古墳―朝鮮半島の前方後円墳

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  • サイズ B6判/ページ数 286p/高さ 19cm
  • 商品コード 9784047036567
  • NDC分類 221.03
  • Cコード C0322

出版社内容情報

前方後円墳は日本列島独特の墳墓であるといわれてきた。築かれた地域は、ヤマト政権が支配する範囲とおおむね一致すると考えられてきたのに、なぜ、それらが朝鮮半島西南部の栄山江流域にまで広がっているのか。この地域はヤマト政権の支配下にあったのか。倭の一部だったのか……。朝鮮半島に残るすべての「異形」の前方後円墳を探訪。これまでの通説をめぐる現状と課題を見直し、永年問われ続けてきた古代史の深遠な謎に迫る。

内容説明

前方後円墳は日本列島独特の墳墓であるといわれてきた。国内で築かれた地域は、ヤマト政権が支配する範囲とおおむね一致すると考えられてきたのに、なぜ、それらが朝鮮半島西南部の栄山江流域にまで広がっているのか。この地域はヤマト政権の支配下にあったのか。倭の一部だったのか。朝鮮半島に残るすべての「異形」の前方後円墳を探訪。これまでの通説をめぐる現状と課題を見直し、永年問われ続けてきた古代史の深遠な謎に迫る。

目次

序章 なぜ研究するのか
第1章 前方後円墳が出現するまで(水田稲作の伝来と渡来人;青銅器生産のはじまりと交易のネットワーク;「海村」のネットワークの展開 ほか)
第2章 前方後円墳を歩く(栄山江流域の前方後円墳についての基礎知識;海南半島―海に囲まれた地;栄山江流域とその周辺―港湾、平野、要衝 ほか)
第3章 栄山江流域社会と前方後円墳(栄山江流域社会とは;前方後円墳は根づいたか;前方後円墳の研究史―被葬者論を中心に ほか)
終章 いま、前方後円墳からみえること

著者等紹介

高田貫太[タカタカンタ]
1975年、福島県生まれ。岡山大学文学部史学科卒業、同大学大学院文学研究科史学専攻修士課程修了。大韓民国慶北大学校大学院考古人類学科博士課程修了。文学博士。国立歴史民俗博物館研究部准教授・総合研究大学院大学文化科学研究科准教授(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー

※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。

さとうしん

19
日本のネットでは政治的な扱いをされがちな朝鮮半島の前方後円墳に関する専論。その被葬者に関する研究史を敢えて後回しにするという構成からも窺われる通り、その位置づけを征服・被征服関係のようなわかりやすい話に落とし込んだものではない。冒頭で、朝鮮半島の前方後円墳が都出比呂志の「前方後円墳体制論」に疑問を突きつける存在であると位置づけているのがおもしろい。2019/10/15

月をみるもの

15
近いうちに、この本を携えて韓国に行き、古墳めぐり(前方後円墳以外も)をすることを決意した。倭国にとって、栄山江流域は百済という「異国」との最前線だったわけだが、茨城や栃木もまた、蝦夷という「異国」との境界だったのだ。そしてたぶん、栄山江流域からわたってきた人たちが倭国に製鉄・馬具・カマドといった技術革新をもたらした。2019/12/03

はちめ

9
朝鮮半島西南部に5世紀から6世紀にかけて一時的に出現する前方後円墳に関する最新の報告。様々な解釈があり得るが、強大な権力の空白地帯であった同地域における百済と倭との権力闘争の表れと言うのが最も自然な解釈ではないだろうか。したがってそこに埋葬されている人も多くは現地の権力者であり、倭との関係を重視する立場だったため、その事をアピールするために子孫らは前方後円墳を作った。しかし、ここにおける倭とは誰を指すのか。興味深い問題だ。☆☆☆☆2019/11/04

はるわか

8
5世紀の終わりから6世紀前半にかけて朝鮮半島西南部、栄山江流域に前方後円墳が営まれた。また、倭の墓制にのっとった円墳も見つかっている。5世紀後半を境に、汎列島的な首長連合であるヤマト政権の構造が大きく変質し、機内の大王の権力が強大化、大王に服従する地方豪族という形が明確に。栄山江流域は5世紀後半から6世紀前半に、ヤマト政権を頂点とする広域な政治秩序に組み込まれていたことになる。2021/02/01

うしうし

8
韓国栄山江流域に偏在する14基の前方後円墳(5世紀末~6世紀前半)の様相が、非常によくわかる書籍。著者はこれらの「前方後円墳や倭系古墳の被葬者」を「現地集団の首長層」と解釈する。彼らは「百済への全面的な編入を是とせずに、(中略)みずからの経済的な既得権益や政治的な主体制をまもろうとした」ため、「前方後円墳や倭系古墳をきずく一連の活動を通して、(中略)倭とのつながりを百済にアピール」したが、6世紀中頃には「百済王権の傘下にはいり、その中でしだいに序列化されていった」(p252~259)と結論づける。2019/11/25

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