出版社内容情報
ニーチェはキリスト教的道徳のもとに,また民主主義政治のもとに「畜群」として生きつづけようとする人々に鉄槌を下す.彼にとって人間を平等化,矮小化して「畜群人間」に堕せしめるのはこれら既成の秩序や道徳であり,本来の哲学の課題は,まさにこの秩序・道徳に対する反対運動の提起でなければならなかった.一八八六年.
内容説明
ニーチェ(1844‐1900)はキリスト教的道徳のもとに、また民主主義政治のもとに「畜群」として生きつづけようとする人々に鉄槌を下す。彼にとって人間を平等化、矮小化して「畜群人間」に堕せしめるのはこれら既成の秩序や道徳であり、本来の哲学の課題は、まさにこの秩序・道徳に対する反対運動の提起でなければならなかった。
目次
第1章 哲学者たちの先入見について
第2章 自由な精神
第3章 宗教的なもの
第4章 箴言と間奏
第5章 道徳の自然誌のために
第6章 われら学者たち
第7章 われわれの徳
第8章 民族と祖国
第9章 高貴とは何か
高き山々より―後歌
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
syaori
62
ニーチェの「近代的理念」やキリスト教的道徳への批判が炸裂する一冊。善悪の彼岸というのは、そういう既存道徳や固定概念を超えた所という意味のよう。他人にとって「正しい」ことが自分にとっての「正しい」こととは限らない。その自分の正しさ、価値の創造基準が「力への意志」ということになるのでしょうが、このためにニーチェが志向する高貴さ、畏敬、強さ、峻厳さには惹かれる部分もひるむ部分もありました。ただ、自分も先入見に安住しない、価値を決定する人間、「自己の責任を譲り渡そうと」欲しない人間でありたいとは思ったのですが。2018/11/14
syaori
58
再読。ニーチェが、これまでの哲学や道徳を批判しつつ、これからの哲学・人間の理想を語る書。彼は人間の「生長」は危険性や圧迫が増大して「生の意志」が無制限的に高まったところで行われてきたとし、社会が安定し捌け口がなくなったために、放胆で暴虐なその「力への意志」を危険で悪だとしてきた哲学や道徳の先入見、欺瞞を糾弾します。そしてそんな社会を軽蔑し嘲笑し、命令者と隷従者との「距たりの感じ」を足場に、抑圧・峻酷な本来の生の高揚を叫ぶその声。「より強く、より悪く」「更により美しく」! その強さ、熱に目が眩むようでした。2019/03/21
藤月はな(灯れ松明の火)
54
状況によっていくつでも解釈できるが故にたちまち、エゴを満たす道具としての偽善となり得る宗教観や倫理観に縛られ、均一化する民衆を「畜群」と呼び、キェルケゴールの信仰するが故の絶望も傲慢と言い切ったニーチェ。狂人扱いされた彼は最も事実を真っ直ぐ、見つめたのではないだろうか。印象的だったのが「復讐と恋愛においては、女は男よりも野蛮である」(4章「箴言と間奏」139)という言葉を残したことだ。王子様気分のフェミニストや「女性は自然の優しさを持つ」というフェミニストが見て見ぬふりをしている女の残酷さを見事に指摘する2014/09/23
さきん
40
善悪、道徳、科学、キリスト教、相対主義、民主主義、近代、自由意志、自由あらゆる価値に疑いをかけ、批判する.善とは何か、そもそも善悪わけても良いのか、著者は善悪を超えた、あるいは彼岸で物事を考えることを表明している.特にヨーロッパおける道徳形成には、キリスト教が深く関わっており、今までの哲学者を含む知識人たちは、その弊害を直視してこなかったのではないかと指摘している.現在EU混迷を予言するような文章も見られた。(pp.233-234)2016/11/30
磁石
28
「男の成熟。ソレは、子供の頃に遊戯の際に示したあの真剣さを再び見出したことを言う」。はじめコレを、子供心を忘れず誰が/何が/どんな障害があろうとも初志貫徹すること、のように捉えていた。なので、KYで他人の迷惑を考えないエセ成金のような輩がそうなのかと思っていた、なら別に成熟する必要ないじゃんとも。だけど「再び見出す」という点を忘れていたことに気づいた。一度忘れる/手放す、という段階を経るということだろう、その上で掴み直す。保証もなければ自分で捨ててもいる、とんでもない勇敢さと何よりも運が必要だろう2017/05/18
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