出版社内容情報
ふたたび「古典の中の古典」と出会う――ギリシア語原典に忠実であることを目指した新鮮な訳文が,新約聖書の魅力と謎とに新しい光を投げる.読みの道しるべとして脚注や挿図を付した,画期的な日本語訳の登場.
目次
ヨハネによる福音書
ヨハネの手紙(ヨハネの第一の手紙;ヨハネの第二の手紙;ヨハネの第三の手紙)
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
きゃんたか
26
ヨハネの福音書は象徴で満ちている。初めの言は全宇宙を司るロゴスだし、共観福音書で顕著な終末論はすっかり影を潜め、神の救いは現在進行形で働く永遠の命に取って代わる。永遠の命は闇の世を照らす光の道標、渇くことない泉の流出、飢えることない天の糧として語られる。現代人を象徴するトマスは、十字架の道のりを犬死のそれ、イエスの復活を目に見えない謎の欺きとして斥けるが、諦めきれないトマスの目の前にイエス自ら姿を現し、見ることの愚かさと信じることの幸いを諭す。ヨハネのこの書こそ、疑い深い現代の福音と言えそうだ。2017/04/29
ぽんくまそ
15
宣教のための翻訳ではなく文献学としての翻訳なので流暢ではなく逐語的だが、そこが良い。なぜなら、欠落部分が多いユダ福音書などキリスト教史の「欠落した輪」であるグノーシス思想とこのヨハネ思想が近いことがよくわかったからだ。マルコ・マタイ・ルカ伝を上座部仏教に、ヨハネ伝や使徒書簡を大乗仏教に例えることができよう。神→イエス→弟子たち→信徒たちという縦の愛を弟子・信徒同士の横の愛と不可分だと繰り返し説かれると気持ちよく洗脳されてしまいそうだ。しかしマタイ・ルカ伝で心に直に切り込んでくる生身のイエスはいない。2022/09/27
SIGERU
11
「はじめに、ことばがあった。ことばは神であった」。ヨハネ福音書の劈頭をかざる「宣言(マニフェスト)」は、西欧文学の神髄を端的に体現しており、美事というほかない。この一節が内包している宗教性を看過して文学性のみを観るのはもちろん誤読だが、それほどに、この福音書全体が文学の豊饒に充ちている。姦通の罪を犯した女を人々が石で打ち殺そうとしたときのイエスのことば「あなたたちのうち罪なき者がまず石をとってこの女を打て」を見よ。これこそが文学だ。2016年の百冊目の読書を、この聖典ともいうべき書で達成できてよかった。2016/11/05
しゅん
10
他の三つの福音書を2Dとするなら、ヨハネ福音書は3D。人物に奥行きがあって、彼らの感情が読み取れる。「はじめに言葉ありき」という有名な冒頭が予告するように、言葉の力に焦点を当てた作品。「罪を犯したことのないものだけが石を投げなさい」のエピソードが含まれているのは本作だけだし、演説もやたらと長い。イエスが自らを「キリスト(救世主)」と名乗るところは胡散くさいし、言葉の過剰が想像力の入り込む余地を奪っているとも考えられるが、現代小説に慣れている自分のような人間にとって一番楽しく読めた福音書であったことは確か。2017/01/06
yuui02
6
ヨハネによる福音書の序文、”はじめにことばがいた。ことばは神のもとにいた”このことばとはlogosで用語解説によると、理性、宇宙の秩序の原理という意味ももち、スタンフォードの哲学辞典によると世界を支配する法、自然法のことだとか。解説によると2世紀アレクサンドリアのグノーシス主義者たちが好んでヨハネ福音書を用いたとある。アレクサンドリアのユダヤ人思想家フィロとの類似点も興味深い。ヨハネの第一の手紙3:9にある「神の種子」はストア哲学の種子ロゴスの観念が元にあるという。2016/04/14