内容説明
江藤淳を、優れた文芸批評家であると同時に、優れた文明批評家であると見ていた著者による江藤淳論。第一章では、戦後日本の「なんとなさ」に根ざすサブカルチャー文学と対峙し、厳密に選別を行っていた江藤淳の姿を、作品を通して分析する。第二章では、「来歴否認」をキーワードに、三島由紀夫、村上龍、村上春樹等の作家たちの作品と生き方が、さらには、サブカルチャーとして生き続ける著者自身の困難さが語られる。
目次
序章 犬猫に根差した思想
第1章 サブカルチャー文学論・江藤淳編(「ツルリとしたもの」と妻の崩壊;「母を崩壊させない小説」を探した少年のために;江藤淳と少女フェミニズム的戦後)
第2章 江藤淳と来歴否認の人々(三島由紀夫とサブカルチャーとしての日本;手塚治虫と非リアリズム的「日本語」の可能性;江藤淳と来歴否認の人々;柳田国男と「家」への忸怩;村上春樹と村上龍の「私」語りをめぐって)
終章 「歴史」と「私」の軋む場所から
著者等紹介
大塚英志[オオツカエイジ]
1958年東京都生まれ。筑波大学卒業。編集者、まんが原作者、評論家。批評誌『新現実』を主宰
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感想・レビュー
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ころこ
34
問題の所在は江藤淳とフェミニズムの組み合わせが川端の『眠れる美女』を想起させるように猥褻で、政治的に対抗勢力に対するほめ殺しではないかというものです。読んでみて半分違っていて、半分あっていました。江藤はアメリカに渡ることではじめて他者を発見し、戦後日本は未成熟な仮構だという結論に至ります。戦前にも近代化は無く、ましてや戦後日本にはアメリカによる逆照射でしか何も発見できない。戦後日本は成熟と喪失の果てにカルチュアを失ったサブ・カルチュア(未熟)であり、母なる大地は未だ母ではない。江藤と著者の両方が批判する戦2022/05/17
ゆう
14
大塚英志の江藤淳に関する批評は、第二次世界大戦後の日本という国家が置かれた空間・時間を考えるためにとても有意味。本書に描かれた「サブカル化」された時空間が、左派/右派の歴史的接続性を脱臼し、ポピュリズムによってどちらへの極へもいとも簡単に傾いてしまう可能性の示唆は、正しい予見であったことは明らか。そして現在そのような状況の進行とともに、「サブカル化」された時空間そのものの耐用年数がきれかかっている(もしくはとっくにきれてしまっている)状況も出現している。一っ飛びにいずれかの極へ傾くことなく、2024/10/26
ミスター
3
なによりも文体が良い。この軽く、軽妙で、サブカルチャー的と言いたくなる文体は大塚英志が評価される所以になっているんじゃないか。自らを仮構とする事で「少女」を守ろうとした江藤淳という評価も面白いと思ったけど、根本的に大塚英志は階級がこの世には存在すると思ってないんじゃないか。国家やサブカルチャーのあり方については大塚英志は真剣に考えるが、経済的問題は無いように扱われている。ここがぼくの一番批判したいところである。2019/02/12
霧
2
江藤淳から大塚英志に至るラインを理解するのに、非常に有意義だった。一旦日本の全てをサブカルから見なくてはならないというラディカルさが腑に落ちた。2016/07/24
トックン
2
サブカルチャーを全面的に肯定した吉本隆明、一方無きものとして無視を決め込んだ大江健三郎とも異なる、江藤淳の「サブカルチュア」に対する態度がとても興味深かった。これは、サブカルチャーという理解できないもの、つまり「他者」に対する知識人としての態度の表れの差異として読み取ることができよう。サブカル化という時代の洗礼に晒される文学を見放すことなく、果敢に「腑分け」していこうとする江藤の文学者としての姿勢に共感を覚えたが、一方彼がその行為を80年代を機に放擲してしまったことは問題として残るだろう。2013/06/01