『トーマス・マン日記』が「第52回日本翻訳出版文化賞」を受賞しました

1985年より刊行を開始し、本年、30年かけて完結した『トーマス・マン日記』(全10巻)の刊行により、このたび紀伊國屋書店が、過去1年間で最も優れた翻訳書を刊行した出版社に対し贈られる「第52回日本翻訳出版文化賞」を受賞いたしました。


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本全集は、マンの手で「死後20年間は何人も開封すべからず」と封印された全32冊、総計5118頁の日記すべてに詳細な注を付した、文学研究に必備の資料であるとともに、激動の時代を証言する、ヨーロッパ精神史の貴重なドキュメントといえる内容で、原書刊行時には「この日記以外に何ひとつ書かなかったと仮定しても、トーマス・マンがその時代のもっとも重要な作家のひとりであるだろうことは疑いを容れない」とも評されています。

各巻の詳細は【こちら】をご覧ください。
ぜひご注目いただければ幸いです。


訳書完結時には、大江健三郎さん、池内紀さんからも推薦文をいただきました。



不変の定番
大江健三郎氏(小説家)

 私は八十歳になり、小説を書くことを終りにすると心にきめて、それからの一年、そのとおりにしました。なお生き続ける私にとって、本を読むことが生きている内容です。
 そして、いま氣付くのは、それらの本のなかで小説はただ一種、トーマス・マンの作品で、私が再確認したのは、この百年でもっとも秀れた世界文学の小説家はトーマス・マンだということです。十八歳の時『魔の山』を読んで自力でかちとった、文学についての知恵です。
 しかも重い辞書を自由にあつかえないので日本語で読む本を中心にしたプログラムで、日本語への翻訳によってです。
 その点について私が自信を持っているのは、しかも若い人たちをとくに想定しての想いであるのは、古い本の復刊から最新のものまで、トーマス・マンの翻訳はいずれも最良の本が手に入るからです。
 私がいまや月ごとにわずかな回数ですが書店を訪れるたび探して、ほとんど裏切られることがないのは、細い流れであれ出続けているトーマス・マン翻訳の刊本です。つねに新しい研究者の関心を引き続けるのが、トーマス・マンなのです。
 加えて、目新しいが時間をかけて工夫されている各種の選集。とくにすばらしい日記。そこでだけ初対面をはたすことのできた事柄も少なくありません。篤学で発想のいい研究者を次つぎとひきつける不変の定番が、トーマス・マンなのです。


亡命者による年代記

池内紀(ドイツ文学者・エッセイスト)

 大きな山が動くぐあいだ。あるいは、そこにノミと槌でトンネルを穿つのに似ている。はじめは無謀としか思えなかった。それが驚きに変わった。時計の針のように一寸刻みの工程が間断なく進んでいく。いまや大山を突き破るまでになった――邦訳『トーマス・マン日記』である。
 ノーベル賞作家マンの日記だが、ふつう文豪とされる人が日常的にしたため、死後、栄光に花をそえるようにして出される日記や書簡集のたぐいとは、まるでちがう。それは始まりが、ヒトラー政権成立後、国外での講演旅行のあと、長い亡命生活が理不尽な運命のようにマンにふりかかった経過からもあきらかだ。日付でいえば、一九三三年三月十五日。
 それにしても索引にみる項目は並外れている。えんえんとつづく人名とその言及個所の数字は示しているのではなかろうか。これは私的な備忘録ではありえない。一個人が書きとめた年代記の性格を色こくおびており、マンは亡命者という特殊な位置から同時代をつづっていった。


2016.09.14 出版  人文 受賞作品