『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか

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『正法眼蔵』を読む 存在するとはどういうことか

  • 著者名:南直哉【著】
  • 価格 ¥2,145(本体¥1,950)
  • 講談社(2015/03発売)
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  • ISBN:9784062584173

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内容説明

われわれはどのように存在しているのか――人間存在根本の問いに『眼蔵』はいかに答えるか。ヨーロッパ現代思想も凌駕する画期的思想書に気鋭の禅僧が己の実在を賭けて挑む、現代人のための入門書にして決定版。(講談社選書メチエ)

感想・レビュー

※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。

テツ

33
道元が書かれた『正法眼蔵』について。実存すること。僕がここに存在するということ。生きることには執着が、己自身とそれを取り巻く世界への幻想がへばりつく。存在とはリアルな関係性から生じるものであり、きっとそこには幻想など入り込む余地はなく、存在は他者との関係性、縁起を経て始めて生まれる。言葉も思考も幻想も、自分という存在への執着からも全てから解き放たれたときにここに残るのは僕なんだろうか。他の存在が全て消滅したとしたら、僕はただ一人で存在することができるんだろうか。2019/06/11

ねこさん

21
坐禅や日々の作務、深く静かな呼吸、所作、公案の拈提工夫のたゆまぬ継続、因果のある臨界点は、いつか「これ」だったのかという経験をもたらす。「ここ」に、「その」ようにせざるを得ない動機がある限りにおいて。無自覚な分別知の枷を探り当て、縁起に自らを組み込み続けることは仏道の証明、「それ」を希求する時点で、既に釈迦や達磨と同じ問題を扱っているということを顕現している。その在り方、動機を仏性と呼ぶかどうかは問いの中にある。「それ」に向かうことは既に救いであり、故に仏教は宗教であり、悟りとは修行し続けることであった。2022/04/13

禿童子

18
難解な『正法眼蔵』の原文と明快だがやはり難解な解釈の連続にひたすら目を通すだけであった。霊魂や我(アートマン)などの実体的概念の否定。自/他、本質と現象、意味と記号に分ける二元的考え方からの脱却。原因と結果ではなく行為によって生じる関係が存在を存在たらしめるという「縁起」。"存在と不在、言語と言語以前、自己と非自己、その間を往還する運動として坐禅は、現世において「自己を消去する自己」の主動力となる。「では、どうする?」は止まない問い、止んではいけない問いなのだ。その問いが止んだとき、仏教はそこで終わる。"2017/09/24

ねこさん

17
思えば承認欲求の無効化、その内発性の獲得を目指すことから、その試みは始まった。承認という概念を受け入れ、さらに承認を必要とせず存在可能となる、それは殆ど義務だった。概念は思考の産物であるが故、徹底的に検証されなければいけない。だがその検証も、実体視の目的を孕んだ言語によって、客体との関係性から実体視された自己が、実体視を回避するという仕方で、自家撞着に陥っている。すべて、方法でしかない。答えを出すことの断念、自己を無効化するという報いなき善行という「言葉」が響く。終章が静かに綴られているのが印象的だった。2017/07/25

さっちも

12
読み始めてかなり経つが、いっこうに分かってこない。だけど惹きつけられる。人間は生きていく為に多くの幻想を必要とする。だけど、それを可能な限りゼロに近づけてみないか、というのが眼蔵と、ある種の仏教の試み。空海だったかが、人の意識を「絵師が鬼の絵を描いて、書いた絵を見て怖がってってすくんでいる」というような説明をしていた。認識のほぼ全ては頭で勝手に作り上げたことに過ぎない。人はそれに捉われて自由を失う。眼蔵は、経験と言語、経験と思考の隔たりを肉薄させ意味や思想に捉われない「スーパーフリー」への方法論を説く。2016/01/21

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