内容説明
〈批評〉とは存在が過剰なる何ものかと荒唐無稽な遭遇を演じる徹底して表層的な体験にほかならない――どこまでも不敵な哄笑を秘めて蛇行する言葉の運動と、遊戯的な戦略に満ちた本書は「知」と「文学」の制度化=反制度化を徹底的にはぐらかすポレミカルな宣言集である。文庫版あとがき、およびその知られざる華麗な修業・遍歴時代を初めて明かした自筆年譜を附す。
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
らぱん
49
愉快だ。自嘲するような物言いが洒脱で蓮實重彦は蓮實重彦なのだと確認した。一文が長くだらだらと続き、頁を跨ぎ30行に及ぶものさえあるが、そこには吟味されたと思しき語彙とそれに合うリズムがあり不思議に心地良い。 何かを言っているようで何も言っていない、あるいは何かを言っているようなふりをしているような「持って回った言い方」のお手本のごとき文体で、理屈を捏ね繰り回す。表現は辛辣だが受ける印象は温かく、形式や概念に惑わされるな、言葉に囚われるな、生まれたての状態で驚け、といった愛情を「勝手に」有難く受け取った。↓2020/01/09
ころこ
36
何が困るかって、言葉の洪水になかなか深層に潜れないようになっていて、その深層も表層に張り巡らされた言葉の一部であり、実は深層だと考えていたものは表層と考えていたものと何が違うのだろうと迷うことです。「あとがき」で表層批評を「肉体的エンターテイメント」と表現している傍から、リリー・フランキーにしか見えないカバーの著者近影は、肉体というにはあまりにも貧弱な、肉体の不在としか言いようのない相貌をしています。しかし5つの文章とも共通して、ある長さを読んでいくと論旨は案外明快になります。「制度」(あるいは装置)とい2021/01/10
シッダ@涅槃
20
[圖書館本。読了。疲れた]この本を前にすると何も言えなくなってしまう気がする。その「何も言えなさ」に対する不自由さ、苛立ちによってのみ、筆者と共有できるなにかを持てる気がしている。あとがきのファンキーさ、自筆年譜(寝る前にほくそ笑みながら読んでいる)の艶めかしさがよい。このジジイ(執筆当時はおっさん)、ツンデレである。[追記]冗談めかしてファンキーだの、ツンデレだの書いたが、本論を読むと「なにやっても無駄だよ」といった不能感やニヒリズムに陥りそうになるので、蓮實氏自身が回避(というより逃走)の実例かも。2016/09/16
しゅん
19
今読むと全然難解じゃない。具体的に対象を描けてない言葉なんて全部つまらん、対象に近づくために「本質」とか「深さ」とか「父」とか「母」とか持ち出したら生き生きした歓びを失う。でも批評は対象を近づけないという諦めとともにある。諦めから逃れるには、諦めの感覚自体を綿密に認識するしかない。常識的といえあ常識的だし、長い文体も諦めの表現として適切でしかない。その諦めが、いくぶん肉体的健康に支えられた健常的なものに見えることにはモヤる。精神疾患と小説の関係は思いのほか重要に思えるから。だけど決定的に面白い。2022/08/15
ザフー
15
「言表」(フーコー)という概念を朧げにも認識した今ならば〈表〉に拮抗する「体」をイメージすることでなんとか入っていける。ひとたび入るとこんな書き方があるのかという皮肉と芳醇(非貧困)に畝る濃密な文体が、まさにエンターテインメント。しかしやっぱこれが難解じゃないという人はイカれているんじゃないか(という立場をいまのところ取りたい気がする)。あくまで蓮見節の快楽として、かつ(例により吉本の『言美』の「海」のくだりから始まる)いわゆるテクスト論/批評、言語論的中核に闘わせるガチンコ勝負・娯楽傍観程度には読める。2022/11/01