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風雪の山ノート―ある大学山岳部員の足跡

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  • サイズ A5判/ページ数 244p/高さ 20cm
  • 商品コード 9784822806354
  • NDC分類 786.1
  • Cコード C0095

出版社内容情報

シゴキの名門・明治大学山岳部時代。山に逝った植村直己さんはじめ先輩後輩たち。山を愛した猛者たち──ユーモアたっぷりに綴る。ヒマラヤ未踏峰2座を初登頂した山旅など、エヴェレストに挑戦したり未踏峰6座を初登頂した著者ならではの一冊です。日本山岳会前会長・大塚博美氏の跋文。

「風雪の山ノート」によせて   社団法人日本山岳会前会長 大塚博美

プロローグ

第Ⅰ部 シゴキの明治大学山岳部
 第1章 見習い新入部員
     山岳部に入部 
     私の自己紹介
     新人歓迎会
 第2章 新人合宿──最初の合宿山行
     新人哀歌
     出発
     入山
     ザック麻痺
     雪上訓練
     停滞
     雪の山並
     二冊の本
     六月合宿──残雪の剣岳
 第3章 非道酷烈──夏山合宿
     夏山第一次合宿──南アルプス北部
     夏山第二次合宿──北アルプス北部横断
 第4章 規律厳格──部員生活
     準備期間 
     凄むOB
     チンタラ
     しきたり
     一九七〇年前後
     部員会をサボタージュ
     ドイツ語の講義
     浅葉君との個人山行
     悩める大学山岳部
     遭難寸前の屏風岩
     山でのアルバイト
     反逆
     現役生活最後の個人山行 
 第5章 冬山へ邁進
     小春日和の秋山合宿
     寒気凛冽──冬富士合宿
     冬山合宿──吹雪く雪稜
     坂本さんの思い出
     冬山合宿最後の夜──ドンチャン騒ぎ
 
第Ⅱ部 ヒマラヤ初登頂──落穂拾いの山旅
 第1章 ダモダールクンド・雪男探索の夏──三粒目の落穂拾い
 第2章 ランモチェ谷の偵察行──四粒目の落穂拾い
 
エピローグ

プロローグ
 
 山の仲間内では「ヒマラヤの落穂拾い」と呼ばれている。八〇〇〇メートル級の氷雪嶺がそびえるヒマラヤで、六〇〇〇メートル前後の名もないちいさな山をめざし、登るたびに、またひとつ増えたと喜んでいるからだ。それを落穂拾いにたとえて、からかい半分に異名をつけたのは、明治大学山岳部で後輩にあたる米山芳樹君だ。私は米山君と年代がずれているので現役時代は顔を合わせることはなかったが、OBになってから二度、海外の山へ行ったことがある。ひとつは初登頂したパキスタンのシャハーン・ドク(六三二〇メートル)、ひとつはマッキンリー山(六一九四メートル)で消息を絶った先輩仲間・植村直己さんの捜索隊で出かけたときだった。ほかにも日本の山でキャンプしながら焚火を焚き、イワナ釣りをともに楽しんだことがある。
 それにしても落穂拾いとは、不名誉で屈辱的な気がしないでもない。重箱の隅をつついて喜ぶ不束者を連想してしまう。しかしその一方で、常識的にはだれでも知っている、十九世紀のフランスの画家ミレーに「落穂拾い」という世界的に有名な作品があるので、そこに描き出された敬虔な農夫婦の姿が醸し出す清廉なイメージとも重なり、悪い気がしない。
 それともうひとつ、『山を考える』(本多勝一著、朝日文庫)に収録された「パイオニアワークとは何か」に落穂拾いの言葉が出てくる。「如何にも。人生は落穂拾いなり」。私は山岳部で図書係をしていたから、製本して書庫に保管された京都大学山岳部の部報で見て知っていた。その後、市販の本でも読んだ。エヴェレストが初登頂された以後の登山についてのきわめてユニークな論考である。行間ににじむ若々しさもさることながら、内容の斬新さに舌を巻く。本多さんには後年、知遇を得ることになるのだが、私は学生時代に「パイオニアワークとは何か」を読んだとき、そのシャープな頭脳にくらべて、みずからのぼんくら頭を恥じたしだいだった。
 
 私は高く大きな山をめざしたこともあったが、失敗をかさね、ときには仲間を失った。荼毘に付し、立ち昇る紫煙に仲間の運命を思い、暗然とするしかなかった。
 山だけでなく辺境を旅し、いくつもの峠を越えた。馬に乗って草原を横断し、お花畑に憩い、吹きわたる軟風にまどろみ、空や雲をながめて心をうたれたこともある。ほかにも砂漠の星空、森にかこまれた氷河湖、地平線や見はるかす山並、異国での雑踏のかなたに沈みかかる荘厳な夕日……。国境を越えて、それぞれの土地で人情の機微にふれ、風景を旅してきたのだった。
 なんのために、と問われても、明解な回答など用意されていない。愚問としか言いようがない。気がついたら漂泊精神が染みついていたのであり、釣りをしたり山へ登ったり、山野をほっつき歩いたり、町や郊外を自転車で駆けめぐったりすることが好きになっていた。
 大人になり、そして加齢難聴と診断されるような中高年になったいま、私は雑木林が残る、どこかの村のはずれに小屋をたてて、そこでの極楽仙人のような生活にあこがれている。昔は山村に住む、貧乏人のだれもが日常的に送っていたはずの生活である。付近には渓流があり温泉がある。山菜を摘み、イワナを釣り、温泉に浸かる。朝な夕なに小鳥の啼き声がにぎやかに聞こえてくる。そこでの秋は晴れやかな小春日和の陽射しがそそぐ日も、蕭蕭たる雨の降る日も、周囲の自然にひそむ静寂が充足感を与えてくれる。いつも自然の息吹に身をゆだね、冬は薪ストーブで暖をとる。自給自足型の、そんな素朴な生活、つまり隠棲を望んでいるのだが、ともすれば一笑に付されて落伍者の烙印を押されかねない。ついでに述べれば、小屋、庵といっていいかもしれないが、名づけて「二合庵」。毎晩二合の酒を欠かさない。
 もっとも、たいした資金でもないのだが、いまのところメドがたたない。しかし貧乏人の特権とも言うべきもので、夢をみることにかけては飽くことを知らないのであり、かつ夢はみるだけなら費用がかからない。それでいて、けっこう楽しめる。それは本を読み、そこに描き出された世界を夢想するようなものである。地図をみて地勢を読みとり、でかけた気分になるのと似ている。
 ちかごろ、私の心には隠棲へのあこがれが絶えず脈打ち、山登りや渓流釣りに行く先々の村々で、そこが夢に適う土地であるかどうか、品定めをすることが習性になっている。この場合、風景などの自然環境とともに見落としてならないのは人的環境である。人品卑しい住人がいないとも限らない。現代社会は都会であれ過疎地の村であれ、人心が殺伐としている。この点、人をみるのに外観に惑わされない、本質を見ぬく眼差しが求められる。
 
 私たちの少年時代と異なり、いまは身近なところに、遊べるような自然は残されていない。小魚の棲む小川や昆虫採集に打ってつけの、秋にはヤマブドウやアケビがゆたかに実をつける雑木林はみあたらなくなった。抗うべくもない自然を私たちはあまりにも破壊し侵食し、荒廃させてきたのだった。そうした破壊現象と軌を一にするかのように、いまでは川と用水路、滝と堰堤、養殖モノと天然モノ、人工林と自然林、キノコにしても山菜にしても、自然のものと人工のものとの見分けがつかない人が増えつつある。それだけにかぎらず、あらゆる分野でニセモノとホンモノ、虚偽と真実、悪意と善意、そこには私利私欲や利権が絡み、判別するのが容易ならざる社会を現出させている。人間の情操形成とそれがどんな関係にあるのか、さだかでないにしても、無関係であるとは言いきれないだろう。
 私は少年時代、山にあこがれ、登山家になることを夢にみていた。それにむかって粉骨砕身した時期もあった。といって登山家として思う存分に行動し、満足する結果をだしたかといえば、けっしてそうではない。結局、一介の山好きとして夢は描けても、いまでは足腰が萎えて気力も失せ、山は遠ざかりつつある。
 人生でもっとも多感な時期、私は山登りに嵌っていた。大学山岳部に在籍し、部員のだれもがそうであったように、明けても暮れても山だった。山は登るものではなく「山をやる」などと表現した。愉しんで登ることよりも、それとは異質な、さらに濃密なエネルギーを傾注する、全身全霊をささげる対象として山は存在していた。「やる」という表現には、そのような意気込みが込められているのだろう。まさか、ハイカーが「山をやる」などと言いだすわけがない。口にだしたとたんに、アンバランスで滑稽なことになる。
 だから私もいまでは「山をやる」などとはおこがましくてとても口にできない。せいぜい「山登りの心得がありまして」といった程度である。
 一九八四年、先輩仲間の植村直己さんがアラスカのマッキンリー山で消息をたち、第二次捜索隊に参加したとき、アンカレッジ空港で出会った日航の機長が「あなたたちは捜索隊ですか」と声をかけてきた。
 「私も山をやるんですがね。気をつけて行ってきてください」
 と機長は言葉をつづけた。激励してくれたのである。
 私たちは神妙な態度で聞いていたのだが、「気をつけてくださいね」という親切な言葉に対し、お礼の言葉を述べた。しかし不謹慎にも、そのあと機長がいなくなってから緊張感がほぐれ、
 「さっきの機長、山をやるんだってよ」
 とちゃかしたのだった。他人を揶揄するのはいただけない。私たちの品性に関することだが、馬脚をあらわした、というか、地金がでたのだ。若気の至りというべきか。まともに考えるなら、みずからの偏狭な態度を戒めなければならない。しかし、どうかすると、大学山岳部の弊風かもしれないのだが、排他的で背伸びしていきがるきらいがある。
 私が明治大学山岳部に在籍していたのは、一九六六年から六九年までの四年間である。たかが四年ともいえるが、強烈な個性からなる、この四年間の山岳部生活は、その後の人生を左右するほど大きな影響力を秘めていた。いささか常軌を逸していたとはいえ、きわめて貴重な体験として、私の人生を建築物にたとえるなら土台を形づくっている。
 山岳部の創立は一九二二(大正十一)年だから、二〇〇六年のいま現在までで八十四年がたち、私がOBになってからでも三十七年が経過している。この間の山岳部の動向については、公式の報告書が出版されている。それとはべつに個人的な記録として、風化もせずに私の記憶の襞に残る思い出、併せてヒマラヤでの落穂拾いの山旅をここに書きつけた。
 山岳部を卒業してから三十余年が過ぎたころ、松本市内のうなぎ屋で、上高地は「西糸屋山荘」の奥原教永さんの馳走にあずかったことがある。奥原さんには学生時代からさんざん世話になっている。奥原さんは、私たち山岳部OB会「炉辺会」の特別会員でもある。二人で酒盃を酌み交わしながら、私は松本へ来る途中、昔と変わらぬ冬の北アルプスの山並を車窓に眺めて美しく思い、心が清らかに洗われたことを話題にした。すると奥原さんは、ほお、と溜息にも似た声を洩らし、根深君もそんな年になったか、としみじみとした口調で言った。現役時代の、馬車馬のように山を登っていたころの私と重ね合わせて隔世の感をおぼえずにはいられなかったようだ。
 だれしも寄る年波には逆らえないのである。
 現役時代の、とくに「新人」と呼ばれた一年生のときのシゴかれた思い出は、思い出すだけで心身ともに消耗してくたびれそうになる。もしかしたら、きれいさっぱり忘れ去ることはないにしても書き綴ることで呪縛が解かれ、山で重荷をはずしたときのように気分が清々するかもしれない。と思ったりもするのだが、ちっとやそっとのことでは、この思い出は運命としてはずれないようになっている。
 
(註)私がOBになってから出版された報告書は『炉辺第8号』『炉辺第9号』『明治大学山岳部80年誌』がある。

目次

第1部 シゴキの明治大学山岳部(見習い新入部員;新人合宿―最初の合宿山行;非道酷烈―夏山合宿;規律厳格―部員生活;冬山へ邁進)
第2部 ヒマラヤ初登頂―落穂拾いの山旅(ダモダールクンド・雪男探索の夏―三粒目の落穂拾い;ランモチェ谷の偵察行―四粒目の落穂拾い)

著者等紹介

根深誠[ネブカマコト]
1947年青森県弘前市に生まれる。明治大学山岳部OB。弘前市在住。1973年以来、ヒマラヤに通い続ける。77年ヒマール・チュリ、81年エヴェレスト、ともに失敗。83年にはアラスカ・マッキンリーで行方不明になった先輩仲間の植村直己さんの捜索に参加。88年シャハーン・ドク初登頂。92年、日本人僧侶河口慧海のチベット潜入経路を調査。2004年、ヒマラヤ奥地ツァルカ村に3年がかりで鉄橋を架設。現在、ヒマラヤの未踏峰6座に初登頂(落穂拾い)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。

感想・レビュー

※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。

こまったまこ

1
40年くらい前の明大山岳部の実態を綴った本。噂には聞いていましたが、これほどまでは…まさにシゴキです。軍隊のようです。作者も時代錯誤だと思ってたみたいでその辺はかなりコキ降ろしています。反面そういう厳しい環境に耐えたからこそ今の俺があるみたいな、山岳部を擁護するようなことも書いてあったり。命にかかわるからこそ厳しくするのでしょうけれど、楽しくはない。下級生は上級生にシゴかれる。上級生はOBにどやしつけられる。シゴキの連鎖は断ち切れない。まるで会社の上下関係みたいです。私はワンゲルだったけど、楽しかったな。2011/07/06

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