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沖縄同時代史 〈第10巻〉 新たな思想は創れるか

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  • サイズ B6判/ページ数 273p/高さ 20cm
  • 商品コード 9784773628098
  • NDC分類 219.9
  • Cコード C0331

出版社内容情報

1992年から刊行が開始された「沖縄同時代史シリーズ」の最終巻。沖縄を基軸に政治社会を批評してきた研究者の発言集。本巻では2001年から03年の文章を収録。9・11に象徴されるブッシュ政権の世界支配戦略とそれに追随しナショナリズムを煽る小泉政権。憲法を形骸化させる様々な法制化とイラクへの自衛隊派遣も本質的な論議が未消化のままなし崩し的に実行されている現在、平和共存を目指すには、主体的責任に基づく民衆の自立であり、新しい思想の創造であると指摘する。

●目次 新たな思想は創れるか 9・11と平和運動



はじめに

Ⅰ 日米安保と戦後沖縄の検証
1 新ガイドラインと沖縄
2 世論調査に反映する時代状況
3 親米派の対米恐怖
4 戦後派の危機感
5 沖縄と有事法制
6 一九五〇年代後半から何を学ぶか [インタビュー]
7 対日講和と沖縄の五〇年
【補記1】五〇年代の沖縄を背負った男・瀬長亀次郎
【補記2】反基地闘争の象徴・阿波根昌鴻
【補記3】『沖縄島』と霜多正次
8 『日米関係と沖縄 1945~1972』を読んで
【補記1】『沖縄戦と民衆』を読んで
【補記2】『琉球列島の軍政』を読んで

Ⅱ 平和運動の地平
1 「復帰三〇年」を引き裂く [対談=宮城公子]
2 復帰三〇年と沖縄の現実
3 『けーし風』の八年
【補記1】『けーし風』読者の皆さんへ
【補記2】『琉球弧の住民運動』から『けーし風』へ
4 わたしたちは変わりうるのか
5 ペシャワール会と沖縄平和賞
【補記】基地容認とは矛盾 [インタビュー]
6 隠れ蓑にされるNGO
7 復帰三〇年の沖縄と慰霊の日
8 平和学会研究大会の沖縄開催
沖縄同時代史」シリーズの終刊にあたって

年 表

■はじめに――いま沖縄はどこに立っているのか

 一九九五年九月に沸き起こった沖縄の現状打開を求める民衆運動は、沖縄県知事をも巻き込みながら、日米地位協定の見直しと基地の整理・縮小を最低限の島ぐるみ要求として展開されていくことになった。予期せざる沖縄県知事の代理署名拒否に、日本政府は問題解決の糸口を見出だせないまま、結局は、職務執行命令訴訟に踏み切る。首相が知事を相手どって訴訟を提起するという前代未聞の事態は、日本国家と沖縄社会の対決の構図を浮きあがらせ、自立・独立論議を活発化させるような社会的雰囲気も生まれた。

 一方、リップサービスや小手先の対応策に失敗し、安保再定義のためのクリントン米大統領の訪日日程も延期せざるをえない状況に直面した政府は、関係閣僚と知事による沖縄米軍基地問題協議会を設けると同時に、日米間にSACO(沖縄に関する特別行動委員会)を設置した。復帰後二十数年を経て、沖縄の民衆運動は、ようやく、基地問題に関する沖縄の発言権を、陳情のレベルから中央政府と地方政府の協議のレベルへと押し上げたのである。また、沖縄の基地問題が日米間における特別のテーマであることを改めて認識させることにもな求める立場からすれば不満の残るものではあったが、九五年十月二十一日の県民大会における基地の整理・縮小が基地撤去へのプロセスとして明確に位置づけられた点が高く評価され、ほぼ島ぐるみのコンセンサスを得た。しかし、一〇・二一県民大会にも不参加だった土地連(軍用地主会連合会)だけは、いち早く基地全面返還反対の意向を表明していた。

 また、基地の整理・縮小を撤去へのプロセスとして位置づけた基地返還アクションプログラムにしても、下から積み上げられたプログラムというよりも、急進展する事態に対応するために県が机上でまとめあげたという側面が強く、二〇〇一年、二〇一〇年、二〇一五年という三つの時期の目標年次も、過去の沖縄振興開発計画の延長線上に、三次振計(第三次沖縄振興開発計画)の目標年次や、新しい全国総合開発計画の目標年次に合わせて設定されていた。したがって、自然環境の破壊や公共投資依存型経済構造の強化をもたらした過去の振興開発政策を批判的に克服し、基地のない沖縄の将来像を模索しようという方向性はみられなかった。

 基地返還アクションプログラムとセットになって、沖縄の将来構想の意味ももたされて提起されたのが国際都市思惑がドッキングし、沖縄を飛び越したネットワークがすでにできあがっている。その結果、沖縄に東南アジアの安い製品が入ってくるなど、沖縄にとってのマイナス面も生じている。国際都市形成構想は、果たしてこうした現実を踏まえているのだろうか。

 牧野は、“箱もの(施設)”中心主義の国際交流拠点づくりよりも、人材の育成や産業技術の拡充による新たな産業の創出が必要であり、そのためには、工業試験場やTTC(トロピカルテクノセンター)などの試験研究機関の充実に数百倍のエネルギーを注ぐべきだ、と主張する。こうした牧野の批判は、きわめて説得力をもっており、それは、いわば経済的常識といえた(ただわたしの立場からすれば、牧野が基地関連収入を固定的に過大評価しているかにみえることと並んで、「土地を基地にとられているから産業振興が妨げられているわけではない」という牧野の主張が、現状維持論に強く傾斜しているかに見える点には、大きな疑問と批判がある)。

 だが、最大の問題は、沖縄経済界自体が、そうした経済的常識を共有して行動しようとはしなかった点にある。牧野浩隆が、その主張を「『国際都市』の陥穽(かんせい)――昨今の県経済に寄せては、政府と沖縄の緊張関係が持続されていた。その一つのピークは、三月二十五日の福岡高裁那覇支部における県側敗訴の判決であった。知事はこの判決に従わなかったので、橋本首相が署名代行を行ったが、四月一日から楚辺(そべ)通信所(象のオリ)の知花昌一の土地は不法占拠状態になった。

 五か月遅れのクリントン訪日直前、日米両政府は、沖縄側が提起した基地返還アクションプログラムに回答を出した。SACOの中間報告を承認した日米安保協議委員会の決定がそれである。

 日米両政府は、基地返還アクションプログラムに何のコメントも加えないまま、アクションプログラムが第一期に挙げた基地のほとんどすべてと第二期に挙げた一部の基地の部分返還、及び移設条件付返還を決定した。それは、老朽施設の更新を含む軍事施設・機能の強化再編成と抱き合わせで、基地面積の縮小をはかるという基地の整理・統合・縮小策であった。安保堅持と調和する基地の整理・統合・縮小は、基地撤去へのプロセスとしての整理・縮小とは似て非なるものであった。その整理・統合・縮小策の目玉が普天間(ふてんま)基地の返還であった。

 普天間基地の返還は、SACOの中間報告に先立ったのは県であった。県民投票による意思表示は、当然県(知事)の中央政府に対する発言力を強化させることになる。だが同時にそれは、大田知事の支持基盤を拡大・強化することにもなりかねず、県政野党は、県民世論の動向をにらみつつ微妙な立場にたたされることになった。こうしてついに自民党は、県民投票条例制定に反対し、県民投票にも棄権を呼びかけることになった。ここで、九五年秋、とりわけ一〇・二一県民大会以来の島ぐるみ体勢は崩れはじめるのである。

 一方県は、吉元副知事を県民投票推進本部長として、県民投票のキャンペーンに乗り出すことになった。それでいて、代理署名訴訟に関する最高裁判決が近づくにつれて、その態度は微妙に変化する。振りあげたこぶしの下ろしどころをさぐりはじめるのである。

 中央政府にとっても、県が、基地返還を前提とした将来構想としての国際都市形成構想を、新たな沖縄振興策として基地返還要求と並列化させ、これに要求の比重を移しはじめたことは、歓迎すべき変化であった。政府が、安保堅持・拡大・強化の方針を貫こうとするかぎり、基地返還アクションプログラムのような妥協的微温的提案に対してさえ満足な回答を用意することはは整備され、一年に及ぶ“知事を先頭にした島ぐるみの闘い”の時代は終わるのである。

 主役の座を降りてしまった知事に代わって、抵抗運動の前面に押し出されたのは、本来の主役である反戦地主を軸とする民衆運動であった。土地連、知事、経済界とそれにつらなる層にアメを与える約束をした政府は、抵抗運動の核心部分に特措法改定というムチを振り下ろすチャンスを狙いはじめた。すでに右翼ジャーナリズムは、九六年夏ごろから、知事と反戦地主や一坪反戦地主に対する攻撃を開始していたが、知事が膝を屈すると、反戦地主なかんずく一坪反戦地主にその攻撃を集中し、これを安保に反対する特殊なイデオロギー集団として描き出そうとした。政府、自民党関係者もこれと歩調を合わせ、特措法改定は特殊な集団の政治的妨害を排除するやむをえない措置、として正当化しようとした。

 しかし、沖縄の世論は、特措法改定を、沖縄基地の現状固定化・維持・強化のための措置として正確にとらえていた。

 特措法改定(一九九七年四月十七日)は、沖縄の世論を安保翼賛体制下の日本の政治が踏みにじる、というかたちで強行された。その反動で、一種の独立論的雰囲気も一挙に拡がったし、前の状態に逆戻りしていた。それでいて名護市長が事前調査受入れを表明したとき、知事は、市長の立場を理解し、地元の意見を尊重するとした。

 名護市長は、ヘリポートに賛成しているわけではない。なお、原則反対といっている。しかし、建設のための事前調査は、地元民の反対を押し切って容認した。そこにもまた、北部振興策の影がちらつく。

 大田知事は、特措法の改定に際して「沖縄は日本にとって何なのか」と問うた。だが、そう問う前に、「山原(やんばる)(北部)は沖縄にとって何なのか」という問いに答えなければならないだろう。

 この文章を書いているちょうどこのとき名護市では、昨年の県民投票を、質的にも量的にもはるかに超えるかたちで、市民投票条例制定請求の署名運動がすすめられている。だが、県民投票の場合と違って、市長も、市長与党が多数を占める市議会も、市民投票に好意的ではない。もし、海上へリポート問題が、地元名護市やキャンプ・シュワブを抱える辺野古(へのこ)周辺の問題に局地化されてしまうならば、それは沖縄が、日米安保体制が強いている構造的沖縄差別の論理を、自ら受け入れてしまうことを意味する。いま沖縄は、重大な転機にさ

国益という言葉の背後には、民衆を欺くウソがあるのは歴史が証明している。今の権力者を生み出した責任の多くが私たち一人一人にあるのも事実だ。新しい価値観を創造する必要性を本書は強く語る