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沖縄同時代史 〈第9巻〉 公正・平等な共生社会を (新装版)

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  • サイズ B6判/ページ数 235p/高さ 20cm
  • 商品コード 9784773628081
  • NDC分類 219.9
  • Cコード C0331

出版社内容情報

行動する沖縄戦後史研究者の発言集「沖縄同時代史シリーズ」の第9巻。日本はアメリカの世界戦略(NATOによるユーゴ空爆、WTO閣僚会議の決裂など)の補完的役割をますます強め、「戦争ができる普通の国家」を完成させた。サミットが行われたにもかかわらず、沖縄は依然として基地の県内移設や軍港建設問題、米兵の暴行事件に揺れ、物乞い政治に邁進する。そんな中で、真の平和創造・基地撤去をどう進めるべきか。著者は様々な角度から提言する。

●目次 公正・平等な共生社会を 迫られる沖縄の選択



はじめに 「沖縄の現実」と「日本の将来」
◆沖縄民衆平和宣言

[I] 変わりゆく日本
1 新しい状況と基地返還運動
  【補記1】不審船騒ぎと不確かな世論
  【補記2】ユーゴ空爆とは何か
2 新ガイドラインから見えるもの
3 ガイドライン関連法案と沖縄
4 地方公聴会って何だ?
5 横田基地問題と沖縄
6 いま、なぜ、国旗・国歌か?
7 地方分権一括法と米軍用地特措法
8 憲法記念日に想う
9 一九九九年を総括する

[II] 保守県政下の沖縄
1 稲嶺県政の登場とその背景
2 新しい反基地闘争の胎動
3 沖縄闘争の現場から
4 一坪反戦地主排除決議の意味するもの
  【補記】森発言の何が問題か
5 住民意思が状況動かす――シアトル・吉野川・ビエケスそして沖縄
6 沖縄はどこへ
  【補記1】沖縄の役割
  【補記2】〈座談会〉宮里政玄/星野英一/我部政明/新崎盛暉
  「軍事力=安全保障の要」は学会の「定説」か――牧野副知事の主張を検証する
  【補記3】韓国の米軍基地問題
7 使用 喜舎場朝順
  【補記2】歴史を切り拓く主体として登場
7 「沖縄イニシアティブ」を読む
8 二〇世紀とは、どんな時代だったか

■はじめに――いま沖縄はどこに立っているのか

 一九九五年九月に沸き起こった沖縄の現状打開を求める民衆運動は、沖縄県知事をも巻き込みながら、日米地位協定の見直しと基地の整理・縮小を最低限の島ぐるみ要求として展開されていくことになった。予期せざる沖縄県知事の代理署名拒否に、日本政府は問題解決の糸口を見出だせないまま、結局は、職務執行命令訴訟に踏み切る。首相が知事を相手どって訴訟を提起するという前代未聞の事態は、日本国家と沖縄社会の対決の構図を浮きあがらせ、自立・独立論議を活発化させるような社会的雰囲気も生まれた。

 一方、リップサービスや小手先の対応策に失敗し、安保再定義のためのクリントン米大統領の訪日日程も延期せざるをえない状況に直面した政府は、関係閣僚と知事による沖縄米軍基地問題協議会を設けると同時に、日米間にSACO(沖縄に関する特別行動委員会)を設置した。復帰後二十数年を経て、沖縄の民衆運動は、ようやく、基地問題に関する沖縄の発言権を、陳情のレベルから中央政府と地方政府の協議のレベルへと押し上げたのである。また、沖縄の基地問題が日米間における特別のテーマであることを改めて認識させることにもな求める立場からすれば不満の残るものではあったが、九五年十月二十一日の県民大会における基地の整理・縮小が基地撤去へのプロセスとして明確に位置づけられた点が高く評価され、ほぼ島ぐるみのコンセンサスを得た。しかし、一〇・二一県民大会にも不参加だった土地連(軍用地主会連合会)だけは、いち早く基地全面返還反対の意向を表明していた。

 また、基地の整理・縮小を撤去へのプロセスとして位置づけた基地返還アクションプログラムにしても、下から積み上げられたプログラムというよりも、急進展する事態に対応するために県が机上でまとめあげたという側面が強く、二〇〇一年、二〇一〇年、二〇一五年という三つの時期の目標年次も、過去の沖縄振興開発計画の延長線上に、三次振計(第三次沖縄振興開発計画)の目標年次や、新しい全国総合開発計画の目標年次に合わせて設定されていた。したがって、自然環境の破壊や公共投資依存型経済構造の強化をもたらした過去の振興開発政策を批判的に克服し、基地のない沖縄の将来像を模索しようという方向性はみられなかった。

 基地返還アクションプログラムとセットになって、沖縄の将来構想の意味ももたされて提起されたのが国際都市思惑がドッキングし、沖縄を飛び越したネットワークがすでにできあがっている。その結果、沖縄に東南アジアの安い製品が入ってくるなど、沖縄にとってのマイナス面も生じている。国際都市形成構想は、果たしてこうした現実を踏まえているのだろうか。

 牧野は、“箱もの(施設)”中心主義の国際交流拠点づくりよりも、人材の育成や産業技術の拡充による新たな産業の創出が必要であり、そのためには、工業試験場やTTC(トロピカルテクノセンター)などの試験研究機関の充実に数百倍のエネルギーを注ぐべきだ、と主張する。こうした牧野の批判は、きわめて説得力をもっており、それは、いわば経済的常識といえた(ただわたしの立場からすれば、牧野が基地関連収入を固定的に過大評価しているかにみえることと並んで、「土地を基地にとられているから産業振興が妨げられているわけではない」という牧野の主張が、現状維持論に強く傾斜しているかに見える点には、大きな疑問と批判がある)。

 だが、最大の問題は、沖縄経済界自体が、そうした経済的常識を共有して行動しようとはしなかった点にある。牧野浩隆が、その主張を「『国際都市』の陥穽(かんせい)――昨今の県経済に寄せては、政府と沖縄の緊張関係が持続されていた。その一つのピークは、三月二十五日の福岡高裁那覇支部における県側敗訴の判決であった。知事はこの判決に従わなかったので、橋本首相が署名代行を行ったが、四月一日から楚辺(そべ)通信所(象のオリ)の知花昌一の土地は不法占拠状態になった。

 五か月遅れのクリントン訪日直前、日米両政府は、沖縄側が提起した基地返還アクションプログラムに回答を出した。SACOの中間報告を承認した日米安保協議委員会の決定がそれである。

 日米両政府は、基地返還アクションプログラムに何のコメントも加えないまま、アクションプログラムが第一期に挙げた基地のほとんどすべてと第二期に挙げた一部の基地の部分返還、及び移設条件付返還を決定した。それは、老朽施設の更新を含む軍事施設・機能の強化再編成と抱き合わせで、基地面積の縮小をはかるという基地の整理・統合・縮小策であった。安保堅持と調和する基地の整理・統合・縮小は、基地撤去へのプロセスとしての整理・縮小とは似て非なるものであった。その整理・統合・縮小策の目玉が普天間(ふてんま)基地の返還であった。

 普天間基地の返還は、SACOの中間報告に先立ったのは県であった。県民投票による意思表示は、当然県(知事)の中央政府に対する発言力を強化させることになる。だが同時にそれは、大田知事の支持基盤を拡大・強化することにもなりかねず、県政野党は、県民世論の動向をにらみつつ微妙な立場にたたされることになった。こうしてついに自民党は、県民投票条例制定に反対し、県民投票にも棄権を呼びかけることになった。ここで、九五年秋、とりわけ一〇・二一県民大会以来の島ぐるみ体勢は崩れはじめるのである。

 一方県は、吉元副知事を県民投票推進本部長として、県民投票のキャンペーンに乗り出すことになった。それでいて、代理署名訴訟に関する最高裁判決が近づくにつれて、その態度は微妙に変化する。振りあげたこぶしの下ろしどころをさぐりはじめるのである。

 中央政府にとっても、県が、基地返還を前提とした将来構想としての国際都市形成構想を、新たな沖縄振興策として基地返還要求と並列化させ、これに要求の比重を移しはじめたことは、歓迎すべき変化であった。政府が、安保堅持・拡大・強化の方針を貫こうとするかぎり、基地返還アクションプログラムのような妥協的微温的提案に対してさえ満足な回答を用意することはは整備され、一年に及ぶ“知事を先頭にした島ぐるみの闘い”の時代は終わるのである。

 主役の座を降りてしまった知事に代わって、抵抗運動の前面に押し出されたのは、本来の主役である反戦地主を軸とする民衆運動であった。土地連、知事、経済界とそれにつらなる層にアメを与える約束をした政府は、抵抗運動の核心部分に特措法改定というムチを振り下ろすチャンスを狙いはじめた。すでに右翼ジャーナリズムは、九六年夏ごろから、知事と反戦地主や一坪反戦地主に対する攻撃を開始していたが、知事が膝を屈すると、反戦地主なかんずく一坪反戦地主にその攻撃を集中し、これを安保に反対する特殊なイデオロギー集団として描き出そうとした。政府、自民党関係者もこれと歩調を合わせ、特措法改定は特殊な集団の政治的妨害を排除するやむをえない措置、として正当化しようとした。

 しかし、沖縄の世論は、特措法改定を、沖縄基地の現状固定化・維持・強化のための措置として正確にとらえていた。

 特措法改定(一九九七年四月十七日)は、沖縄の世論を安保翼賛体制下の日本の政治が踏みにじる、というかたちで強行された。その反動で、一種の独立論的雰囲気も一挙に拡がったし、前の状態に逆戻りしていた。それでいて名護市長が事前調査受入れを表明したとき、知事は、市長の立場を理解し、地元の意見を尊重するとした。

 名護市長は、ヘリポートに賛成しているわけではない。なお、原則反対といっている。しかし、建設のための事前調査は、地元民の反対を押し切って容認した。そこにもまた、北部振興策の影がちらつく。

 大田知事は、特措法の改定に際して「沖縄は日本にとって何なのか」と問うた。だが、そう問う前に、「山原(やんばる)(北部)は沖縄にとって何なのか」という問いに答えなければならないだろう。

 この文章を書いているちょうどこのとき名護市では、昨年の県民投票を、質的にも量的にもはるかに超えるかたちで、市民投票条例制定請求の署名運動がすすめられている。だが、県民投票の場合と違って、市長も、市長与党が多数を占める市議会も、市民投票に好意的ではない。もし、海上へリポート問題が、地元名護市やキャンプ・シュワブを抱える辺野古(へのこ)周辺の問題に局地化されてしまうならば、それは沖縄が、日米安保体制が強いている構造的沖縄差別の論理を、自ら受け入れてしまうことを意味する。いま沖縄は、重大な転機にさ

新ガイドラインの策定など、戦後培ってきた平和思想をかなぐり捨てた日本の危機的政治・社会状況を、沖縄から鋭く衝く。