内容説明
本書は、いまなにが起きているのか、という大それた問いをめぐって、権力論のアプローチから考えてみようとする試みである。
目次
新しい権力地図が生まれるとき―“運動”以降
1 フーコーと自由の現在(リベラリズムの差異と反復―統治論;生に折り畳まれる死―権力論;敵対の転位―法・ノルム論)
2 セキュリティと自由(“セキュリティ”の上昇―現代都市隔離論;恐怖と秘密の政治学;現在性の系譜学へむけて―「犬」と例外状態)
著者等紹介
酒井隆史[サカイタカシ]
1965年生まれ。早稲田大学大学院文学研究科社会学専攻博士課程満期退学。現在、早稲田大学非常勤講師。専攻は社会学、社会思想史
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感想・レビュー
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あだこ
1
法による統治の過剰さに対する嫌悪感が全体を貫き、それが時々、国家への嫌悪を醸し出す。本文中でもたびたびひかれるフーコーの『生政治の誕生』にのっかれば、経済学的モデルにおける統治の供給過剰という話に置き換えられる。もし「自由」を生み出す統治の身振りに対する批判なのであれば、結局はネオリベラリズムに回収されてしまう。2009/07/20
hika
1
雇用等の流動化の徹底、セキュリティとリスク、恐怖と不安を原動力に作動する監視管理統治など。それらを後期フーコーの読解、(特に〈法と秩序〉について)を通じその構造が考察される。そこでは、前述の問題が全て大きなリベラリズムのパラダイム変化の一部であることを見ることができる。2001年に書かれた本書であるが「現在」を歴史的に理解するために、「今」読む意味があるのではないだろうか。2009/07/03
my_you
0
ネオリベ・フーコー2014/10/01
抹茶ケーキ
0
フーコーの枠組みから現代社会のネオリベ化、監視社会化などを批判的に検討。20年ほど前の本だけどほとんどの部分は今でも当てはまると思う。「公共空間の「浄化」によって、たしかに一方では、公共空間の明るみからは暴力が消えていく。理論上はそうだ。だがセキュリティの論理による「暴力の終焉」は、現実上では最大の暴力を……付随するという逆説を私たちはいま、そのリミットにおいて目撃しつつある」(302頁) 2019/08/06