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わたしは、1970年生まれである。『女の遺言』の共著者である麻鳥さんは、この年には女性解放運動を始めていた。わたしは、権威としての女性学理論のなかで80年代を育ち、そして90年代に女性運動の実践者たちと知り合い、多くの怒り方を、日々の生活の倫理を学んだ。男として生きてきた歴史を持つ者として、性虐待のサバイバーとして、専門職という多少は恵まれた立場を持つ者として、わたしなりの修正や緊張をしつつも女性解放運動から多くを受け継ごうと努力し、そして「男」として生きることをやめた。
その中から生まれた『女の遺言』という本は、いわゆる理論書にも実用書にもあてはまらない。どう書くかではなく、書くわたしが女の側でどう生きるかを考えてみたものである。
女性解放運動と女性学の理論は別世界で、女性解放運動には理論がないという男性の指摘があるが、そうだろうか? わたしは女性学とは、まず女性に向けたメッセージであり、行動のための学問だと思っている。そして、理論や現実についての知識は不要ではない。他人の痛みをそのまま感じることはできないし、軽々しくわかったとはいえないが、理論によってその痛みをもたらすしくみに近づくことまではできる。現実の説明だけでは社会は変革されないが、知っていくことで自分の中で何かが突き動かされるだろう。そして閉塞せず、つながる先を見つけて連帯し、運動することができる。
しかし、区切られた学問の空虚さには別れを告げたい。わたしの日常、日々を生きることを見下した理論は力をもち得ない。あえて言えば、現実や運動を理論家のための理論の実験場や情報材料としてはならないし、改めて枠をはめてしまう弊害は計り知れない。
わたしの課題は、運動の内部から理論を生み出し、それを力として使うという道筋を見つけることだ。それは、思いがけないきっかけでやってくる機会をとらえて、造られた現実からはみ出し、つねに人と出会い直すこと。きっと、重荷を解きあい分けることになり、それが他者への想像と楽しむ創造の余裕につながれば生きのびられるだろう。
そして、活字にならないこと、その場に立ち会わなければ聴けないこと、一緒にいなければ感じられないこと、それらをこそ自分の手ですくい取っていこうと思っています。
最近はこのようなことを考えながら生活しています。
【鈴木ふみ】
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