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二 十 七

鈴 木 ふ み

女 の 遺 言
── 「 わ た し 」 の 人 生 を 書 く
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鈴木ふみさんエッセイ―「わたし」にとっての女性解放運動とは。
鈴木ふみさんへのインタビュー
鈴木ふみさんが選んだ本
つながりが暴力を崩していく「他者(わたしでもあるひと)」の声を聴く周縁から歩き出す女の身体は女の人生女を取り巻く世界女性解放とはわたしのこと女性解放とは行動すること女の呼吸を取り戻すMOVIEどのように抵抗するのか?図書館ならではの本
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鈴木ふみさんインタビュー

1.「女性解放運動」に関心を抱いた動機、また携わるきっかけは?

 やはり、人との出会いです。誰と、どのように出会うかによって、どのように私になっていくかが大きく変わると思います。今回の『女の遺言』の共著者の麻鳥さんを始め、多くのすばらしい女性たちに出会えたこと、私自身に深く向き合い正直になる機会を与えてくれた多くの女性たちに感謝しています。
 私は子ども時代に男性から幾度もの性虐待の被害にあって、男性嫌悪、男性の身体を有することへの違和感、男として扱われることへの違和感を感じてきました。加害的にもなりうる男性器に嫌悪が強く、「とりたい」と言い続けていました。そして性別再指定手術をしました。もちろん性別再指定手術をしたからといって、男性が女性になれるほど甘く簡単なものではありません。
 私の場合、男として生きてきた歴史があり、「女性解放運動」に関心はあるものの、携わることができるのか、どう携われるのかは大きな課題です。行動すること。日々の実践。身の回りのことからと思っています。

2.エッセイの中で「わたしなりの修正」とありますが、「女性解放運動」といっても様々な形態・主張があります。具体的にどのような主張を受け継ぎ、あるいはどのような点を修正してこられたのでしょうか。

 男のフェミニズムは可能か、なんて議論がありましたが、男が女性を語ってしまう図々しさには辟易しており、私自身もそうならないように注意しつつ、時々そうなってしまっているのではないかとおびえています。今でも微妙な立場に居ます。私にとっては性別再指定手術の利用は、後戻りしない決心でもありました。性別再指定手術をしてもすんなりと女性の世界に入り込めるはずがなく、これからどう生きていけるかは私の課題です。「女性解放運動」といっても様々な形態・主張があるとのことですが、私にとっては「女性解放運動」とは生き方のことであり、「女性解放運動」に参加している人の数だけ、そのやり方もあると思います。

 例えば、私は性別再指定手術をしたものの、妊娠できるわけではありません。ではなぜ妊娠中絶を女性の手にという運動にかかわろうとするのか、問われることがあります。この問いに対してはいつも真摯に向き合わざるを得ません。少なくとも、かつて男の側に立って物事を見たり話したりしたことがあることを忘れぬように心がけているつもりです。私が性虐待の標的にされたのは、加害者は私の身体が妊娠しないから責任をとらなくてすむからだと思っていますが、性的に蹂躙された私にとっては、対岸の火事ではなく自分のこととして気持ちが大きく揺さぶられます。誰に同一化するかというと、今ははっきりと男性ではなく、女性に同一化して、感じたり、考えたりするようになってきました。
 自分を立て直して自分を築く、つながるための基盤として、そして他者とつながるため、閉塞しない「私たち」という広がりをもつ側にいたいと思います。

3.「男」として生きることをやめた」とありますが、「やめる」前と後では具体的にどのような変化が現れたかどうか、差し支えなければお聞かせ下さい。

 答えは、何もかも急には変わらないということです。私は、30歳近くになるまで、つまり1990年代まで、自分が男である事実に疑いを持ったことはありませんでした。男性器があることを嫌い、自分の男性器を傷つけようとしたことはありましたが、少なくとも、性別表記欄の記入も、お手洗いも迷いなく男性でした。
 ただし、かつても「ましな」男性でありたいというささやかな思いは持ち続けていました。そのため男性が暴力を振るわないようになるための運動に同じ男性であるとしてかかわった時期もありました。
 また、性虐待の男性サバイバーとしての私は語る場もなく、孤立感を感じていました。女性の語りを聴く機会が増え、私が男性であることに罪悪感と居心地の悪さと男性の姿をしていることに申し訳なさを感じるようになったことも私が姿や態度を変えようとした理由です。

 今でも男性であった歴史は消し去ることができませんし、性別再指定手術前の私も後の私も、連続性のある「私」なのです。正直言うと、私は、男性の世界を捨ててきたことから男性の世界にとっての裏切り者であり、かといって女性の世界に完全に入っているわけでもないので、どうしようもない孤立感におそわれることもありますが、正直に引き受けて生きたいと思っています。

4.最近のジェンダーフリー・バッシングについては、どのようにお考えですか?

 この20年近くの日本では、ジェンダーという発想には、力関係、権力関係があるという認識が、表面的には見えないように隠されてしまって、希薄になっている気がします。はっきりいえることは女性の解放を阻止しようとするジェンダーフリー・バッシングが、「ジェンダーフリー」という言葉をただ「性の区分を一切なくすことだ」との曲解のもとに、女性差別が温存され、男女性愛以外の人々・あり方への差別につながっているということです。役割やその裏返しとしての義務を強調することは、平等が実現していない社会の中ではどこにしわ寄せが及んでいるか考える必要があります。まずは、女性やセクシュアル・マイノリティの人たちを格下げしないことを徹底させるべきです。
殴られ、傷つけられる役割を女性に振りあてるジェンダーフリー・バッシングの瑣末な揚げ足取りに怒りながら、女性が人身売買され続けているという暴力、女性のHIV感染者が増加している現状や世界中に広がる男女間の貧富の格差などこそ話題になってほしいと考えています。

 バリア・フリーという言葉がありますが、そのバリアによって得をしている側、つまり健常男性こそ、課題にすべきことがたくさんあります。もっとジェンダーという仕組みに敏感になる必要があります。ジェンダーフリーとジェンダーフリー・バッシングの対立は、女の子への教育の場でより顕著になりがちですが、私は、男の子に対して、人を傷つけたり、支配しないこと、自身の性器は他人が望んでもいない妊娠を引き起こしうるものであることを理解できる教育をすることが女性の負担や義務を増やさないためにも不可欠だと思います。

 誰もが性的存在なのです。誰もが性的存在として尊重され、誇って性的存在としての自分を表現できることが大事だと思います。女性として性を表現していくこと、セクシュアル・マイノリティの人が性的表現をすることを躊躇しなくてもよい社会が必要なのです。

5.「女性解放運動」を行ってこられた中での印象深い出会いや出来事について教えて下さい。

 私は「女性解放運動」を行ってきたわけではなく、できるだけ「女性解放運動」に近い場所に居続け、許されることならば「女たち」の流れの隅に居させてほしいという願いを持っているだけです。
 リブとして多くの人から知られている出来事は、私にとっては大きな影響を受け、敬愛しているものの、やはりそこに居た私ではない歴史なのです。
 むしろ、家族帝国主義粉砕とまで声高に主張して学生運動にかかわった男たちのほとんどが、いまや家庭で家父長の座に居座っていることに無自覚なことに偽善を感じます。それに対して、女性解放運動に今も合流する女性たちの、生活も人生も活動も同じだという態度に本物さを感じるのです。

6.やはりどうしても先生のこれまでの類稀な経歴と肩書きに関心を抱きます。生い立ちから現在のご活躍に至るまで、エピソードを交え詳しく教えて頂く事は可能でしょうか?

 私には類稀な経歴と肩書きなのかわかりませんし、これからも私自身の経歴や肩書きという枠に自分自身が閉じこもらない展開をしたいと思っています。
 私が生まれたのは、1970年2月26日。その年にはウーマンリブがさまざまな行動によって社会の注目を浴びました。後で知ったこれらの出来事は、私には今、意味を持ちだしています。

 子ども時代は、社会運動とは、過激なもの、してはいけないものという保守的な雰囲気が周りには漂っていました。私は、ある程度は近づくものの、その中での葛藤を聞き及んだり、消耗しきった知人とのかかわりから怖さを感じて、微妙な距離をとっていました。
 私は10代後半で女性学と出会い、自分が男として特権を持ち、搾取している側にいることに気づかされ、そのような私の不潔さとそしてそれまで気がつかなかった自分の鈍感さに何度も落ち込んだのを覚えています。同世代の人の中では共通の感じ方をした人も多いのかもしれません。
 私は社会人になるまでに、いじめや暴力の被害にあうことが多かったので、多数者の横暴には理不尽さを感じていました。それだけでなく、組織人としてやっていくことに向いていないと感じていました。そんなことがあって司法試験に運よく合格し、弁護士になりました。
 また、ある年上の女性と婚姻し、その女性の氏になったこともがあります。私は、仲良しカップルのつもりで何でも平等にと考えていたのですが、いざ婚姻生活を始めてみると、「夫」という色眼鏡で見られるようになりました。男が氏を変えたことへの周囲の猛反発、家事を理由に残業しないことへの奇異な注目、「夫」側の親族を優遇しなければならないという理不尽さなど、山ほど矛盾を感じました。彼女には「嫁」としての立場を押し付けられた苦い体験もあるでしょう。後に離婚することになりましたが、そのパートナーから学んだことはたくさんあります。そして私は婚姻制度を利用して生きようとしたことが間違いだったと今は反省しています。

  その後も一人で生きる基盤としてさまざまな資格を得ていますが、それぞれに理由があります。試験好きなわけではありません。いずれも面と向かうべき課題が目の前にたち現れてくる感じがします。たとえば「聴く」ことを臨床心理から学び、女性を取り巻く暴力状況も見えてきました。私にとっては聴くことが変化のきっかけになりました。聴くことによって語り手との間の扉が少し開かれ、私自身が大きくゆすぶられました。
 そのような中で、女性解放運動を続ける女性たちと出会うことになりました。世代が近すぎない分、よかったのかもしれません。今は「男から限りなく離れる」を課題にする人たちとも話せるようになりました。自分の人生を正直に語ってもいいという関係が少しずつできてくることで、やっと呼吸が楽になりました。この起伏ある道程なしには、今回の「わたしの人生を書く」遺言の本は生まれませんでした。
 出会いの機会をいただいたすべての方々に感謝します。今後とも、どうぞお付き合いください。

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