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『わたしを離さないで』で2006年度キノベス1位に輝いた カズオ・イシグロさん特別寄稿

カズオ・イシグロさん書店は 文化が出会い 交差する場所

 『わたしを離さないで』が紀伊國屋書店の「キノベス」に選ばれた――出版社からのその知らせは、私には飛び上がりたいほど嬉しいものでした。

私の人生で最も幸せな時間の少なからぬ部分は、書店をぶらつき、本を眺めながら過ごした時間だと、これは決して大げさでなく申し上げられます。

もちろん、人生の大半をイギリスで過ごしてきましたから、私のよく知る書店はロンドンのそれであり、ヨーロッパ各地、アメリカ各地のそれです。

でも、私が書店に抱く愛情の芯となるどこかに、日本の本屋さんの記憶があると思います。

幼い頃、本屋さんの上のほうの棚に手を伸ばし、大きな絵本をとって、汽車や消防車、スーパーヒーローや宇宙人を飽かず眺めていたことを思い出します。

家に帰ったらすぐ十二色クレヨンで正確に描けるよう、細部までしっかり覚えておこうと懸命でした。 そんな子を本棚の前から引き剥がすのは、母には一苦労だったでしょう。 あと一分だけ、あと一冊だけ――いつもそう言ってだだをこねましたから。

いまでも書店へ入ったときは同じかもしれません。 そろそろ出ましょう、とせっつく妻に、あと一分、あと一冊と、何十年も昔に母に言ったことを繰り返しています。

ほんのりと漂ってくる本の香り、美しい装丁、そして何よりも、周囲の本の一冊一冊に魅力的な世界が隠されているという予感……これがいまでも私をうっとりさせます。

そして、この手の届くどこかに、いまだ出会ってはいないけれど、魔法のように私の人生を変えてしまう一冊があるかもしれないという、十代の頃に得た感覚を、私はいまも失っていません。


 どこか知らない町へ旅をしたとき、マクドナルドやスターバックスの店を見ると落ち着くと言う知人がいます。 私の場合は、やはり書店です。 書店を見かけないと、新しい町に来たという実感が湧きません。 そして、その書店に一歩踏み入れると、今度は、異国へ来たという違和感がたちまち消え失せていきます。 そこに見るのはアイスランド語とか、ポーランド語とか、まったく知らない言葉で書かれた本かもしれません。 それでも、店内をぶらつく楽しさは変わらず、長時間いて飽きません。

というのも、世界中のどこの書店にも、見知った名前やタイトルが必ずあるからです。
今日の書店は、多種多様な文化が出会い、交差する場所だと言えるでしょう。
それは世界中の読む人と書く人の心が集まる場所にほかなりません。

(訳・土屋政雄)

カズオ・イシグロ

1954年11月8日長崎生まれ。1960年、5歳のとき、海洋学者の父親の仕事の関係でイギリスに渡る。以降、日本とイギリスのふたつの文化を背景にして育つ。ケント大学で英文学を、イースト・アングリア大学大学院で創作を学んだ。初めはミュージシャンを目指していたが、やがてソーシャルワーカーとして働きながら執筆活動を開始する。1982年の長篇デビュー作『遠い山なみの光』で王立文学協会賞を受賞。つづいて、1986年発表の『浮世の画家』でウィットブレッド賞に、1989年発表の第三長篇『日の名残り』ではイギリス文学の最高峰であるブッカー賞に輝いている。その後、『充たされざる者』『わたしたちが孤児だったころ』を発表し、それぞれ高い評価を受けた。本書は発売と同時に英米のベストセラーリストを賑わせ、《タイム》誌においては文学史上のオールタイムベスト100に、刊行したその年に選ばれるという驚くべき快挙を成し遂げている。


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