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一枚のくしゃくしゃの紙片がある。たしかにわたしの筆跡。だが、それをいつどの本から書き写したのか、どうしても思い出せない。
「ひとは裂け目や断層や傷や孔のまわりで、夢みたり、考えたりする……」
わたしが〈顔〉について、〈衣服〉について、〈皮膚〉について、〈感覚〉について、そして〈魂〉について考えるときに、道標みたいにしていつもわたしの前にあった言葉。
ならすぐ見つかるだろうと、書棚から数冊の本を取り出す。どれもこれも人生のある時期、わたしの頭の中をぐらぐらかき混ぜた書物ばかりだ。
ミッシェル・セールの『五感―混合体の哲学』(米山親能訳、法政大学出版局)。ここにしめされた〈魂〉の様態に、わたしは心底、震撼した。皮膚がみずからの上に折り畳まれるところ、そこに〈魂〉がある、とセールはいう。セールは〈魂〉に接触という問題を持ち込んだのだ。重ねられた唇と唇のあいだ、閉じられた瞼、収縮した括約筋、拳をにぎりしめたときの掌、組み合わされた腿と腿のあいだ……。「意識は感覚のひだのなかに身を潜めている」とセールはいう。移ろい揺れ動く〈魂〉は、濃密で緻密な区域、急流のようにほとばし渦を巻く場所、夜の砂漠のような漠とした通路といったかたちで、身体のあちこちに不安定に散在している。その液状の皮膚を線でなぞり色で塗り分けたのが入れ墨だというのだ。この思想にふれることで、わたしがそれまでかかりっきりになっていた哲学の心身関係論が急に色褪せて見えるようになった。が、あの文章は見つからない。
〈わたし〉という存在は、たえず、ほどけたり、壊れたり、散乱したり、膠着したり、凝り固まったりしている。そのなかでかろうじてみずからをとりつくろい、奇蹟のようにバランスをとっているのがわたしたちだ。その〈わたし〉をその生誕の原風景のなかに探るのが、ディディエ・アンジューの『皮膚―自我』(福田素子訳、言叢社)。密着、しがみつき、剥がれ、震え、呻き……そんなぎりぎりくるような痛みが充満している。アンジューはセールのアイディアをさらに展開して、「人間の思考の基礎となる皮膚、大脳皮質、性的結合の三者は、表面というもののとる三形態、すなわち包み込む外被、かぶさる覆い、へこんだ襞に対応する」と書く。そのうえで、(母からの)引きはがしという痛い経験と「身体と自我の境界線を維持し、無傷のまとまった存在であるとの感情を再建するための劇的な試み」である皮膚の損傷という行為に眼を向ける。なかなか平静では読めない精神医学の学術書である。が、冒頭の文章はここにもない。どの行間に挿し込まれていても異和はないのに。
こんどこそと、おそるおそる開いたのが、E・ルモワーヌ=ルッチオーニの『衣服の精神分析』(鷲田清一・柏木治訳、産業図書)。〈無〉を包む衣として衣服をとらえるルモワーヌ=ルッチオーニは、意味は(そして衣服は)、切断とともにはじまるという。女性器の「縫い留め」から衣服まで、着たり脱いだりされる皮膚は、裁断しふたたび縫合され、開かれまた閉じられるなかで、ひとの〈魂〉をなしてゆく。
たぶんここにはないだろうと思いつつ開いたのが、霜山徳爾『人間の限界』(岩波新書)。「『意味』が見出せなければ『限界』は哀しい姿をとる」と言う霜山が、享けること、吟味すること、賭けること、認められること、奪われること、立つこと、行き詰まること、誘われること、否むこと、祈ることといった、それを欠いたら〈たましい〉がもはや〈たましい〉としては倒れてしまうそういう境涯をしみじみと語っている。
〈魂〉を皮膚の出来事、体躯の様態と考えてみようとするときに、わたしがいつも《武器庫》としてきたこれらの書物には、先の言葉は見つからなかった。気が鬱いでしまったのは、先の言葉がついに見つからなかったからではない。これらの書物のいたるところに漂っていたのだから。がくんと気落ちしたのは、これら四つの書物にもう書店の棚で出会うことはできないことを知らされたからだ。
折り畳まれた皮膚、剥がれた皮膚、裂けた皮膚、孔の空いた皮膚、よじれた皮膚、封印された皮膚。そうした〈魂〉のもつれる軌跡、ほつれる表面を、そして皮膚が開く感覚と認識の場を、現代アート、現代思想の問題として、火花が散るようにぴしっと論じた港千尋の『考える皮膚』(青土社)も、もう書店では出会えない。
身体の速度を(現実の速度から)ぶらせること、いいかえると、身体のフィジカルな形態や構造を変形したり、拘束したりすることで、身体の存在そのものを流動化させること―そういう、おのれを炸裂させる身体に(著者の言葉では「性イメージの臨界点」に)、ヌード写真や広告、フィルムなどの図像を分析しながら迫った伊藤俊治の連作、『裸体の森』、『生態廃墟論』、『愛の衣裳』、『20世紀エロス』にも、もう出会えない。
そう、「〈魂〉の皮膚」と銘打ちながら、わたしが道標としてきた書物たちを棚に並べられない「じんぶんや」店主は、いまとても悲しんでいる。
【鷲田清一】
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『「待つ」ということ』(角川学芸出版)
現代は、「待たなくてよい社会」「待つことができない社会」になった。私たちは、意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性をなくしはじめている。
本書は、偶然を待つ、自分を超えたものにつきしたがう、未来というものの訪れを待ちうけるなど、現代社会に欠落しつつある、「待つ」という行為や感覚からの認識を、臨床哲学の視点から考えようという本。
ロングセラー『「聴く」ことの力』に続く、「待つ」をキーワードにした現象学的考察。大好評4刷!
((株)角川学芸出版編集部・大蔵敏)
税込1,470円 |
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『思考のエシックス―反・方法主義論』(ナカニシヤ出版)
「現象学を研究するのではなく、現象学をやりたくなった」。
著者は来し方をそう振り返る。
鋭利なナイフを研き上げることに憑かれてしまうと、その刃先はやがて磨耗し、気づけばなにも切れないナイフと成り果てている……。
「方法」の研磨という近代哲学の強迫観念とその隘路から、現代の「学問」はいかに解き放たれうるのか――。
その筋道を鮮やかに照らし出すのが、「反・方法主義」というスタイルであり、思考のエートスにほかならない。
方法主義という近代精神への批判を緻密に繰り広げながら、「国家」「精神分析」「ケア」「生命倫理」など、いくつもの今日的な事象にも濃やかなまなざしを注いできた現象学者、鷲田による久々の哲学論文集。
(ナカニシヤ出版第二編集部・津久井輝夫)
税込各2,520円 |
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鷲田清一(わしだ きよかず)・大阪大学出版会長
1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程修了。
関西大学教授、大阪大学教授をへて、現在、大阪大学理事・副学長。
専門は哲学・倫理学。身体、他者、顔、モード、所有、国家などを論じるとともに、文化批評、美術批評なども幅広くおこなってきた。
近年は哲学的思考を社会の現場へとつなぐ《臨床哲学》の試みに取り組んでいる。
主な著書に、『顔の現象学』、『モードの迷宮』、『「聴く」ことの力』、『老いの空白』、『「待つ」ということ』など。サントリー学芸賞、桑原武夫学芸賞。 |
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■場所 |
紀伊國屋書店新宿本店 5Fカウンター前
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■会期 |
2007年6月18日(月)〜8月5日(日) |
■お問合せ |
紀伊國屋書店新宿本店 03-3354-0131 |
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