内容説明
アジアモンスーンの恵みをうけた肥沃な土地、おっとりとした国民性で知られるカンボジアを突然襲った「赤いクメール」の嵐。ポルポト政権下の粛清と強制農村隔離政策は百万人といわれる犠牲者をだし、国土を荒廃に追いこんだ。なぜ悲劇は起きたのか? 現地で外交官の夫とふたりの息子をつぎつぎと喪い、数年におよぶ強制労働に従事した日本女性の体験談から事実を、また、証言を考察可能な距離まで一度切り離したうえで政変の深奥を掘り起すことを試みる。
目次
赤いクメール
異風土で
流浪の日々
孤独の3年間
混迷のインドシナ
生還
「インドシナ難民」を考える
感想・レビュー
※以下の感想・レビューは、株式会社ブックウォーカーの提供する「読書メーター」によるものです。
スー
10
戦後初の日本とカンボジアの国際結婚をした内藤泰子さん。二人の子供に恵まれ穏やかな性格のカンボジア人に囲まれ幸せにすごしていた。しかしポル・ポトの赤いクメールにプノンペンが陥落すると一変する。都市を逐われ飢えと病と事故で二人の子供と夫と夫の連れ子を失い親戚とも別れ天涯孤独になる。カンボジアの悲劇がベトナムやアメリカやソ連中国と複雑に絡むとは知らなかった。日本のインドシナ難民への冷たい対応に筆者のタイの記者仲間に日本人が難民になっても私達は助けないという言葉をかけられる。古い本ですがとても不安になる。2017/05/26
yendows
5
内藤泰子さんのポルポト政権下カンボジアでの生活と近藤紘一さんの同時代のインドシナ情勢を俯瞰する視点が行き来するところが読みどころ。近藤さんの1つの視点に偏り過ぎないように各々の立場へのあちこちと推測しつつヤンワリ責めつつという書き口もいい。結果、リアリティーが感じられた。その他、内藤さんとご主人との馴れ初め、サイゴン解放後の華人政策(力を持ちすぎ⇒難民、ソ連の影響もあって手段が雑)。辺りも興味深かかった。2016/04/18
がんぞ
4
’73年8月、米軍によるカンボジア爆撃中止。以降、総反抗の機会を狙っていた「赤色クメール」は’75年、北ベトナム軍のサイゴン攻略と同時進行的に首都ブノンペンに迫り(ロン・ノル大統領はハワイに「病気療養」と脱出)…空港、統合参謀本部、放送局も制圧され4月17日「ブノンペン解放」が宣言された。「五年に渡る戦火と流血が終わった」と外交官日本人妻・内藤泰子さんはその時は思った/占領軍は、銃器・鉄棒・電話機の供出を命じ、「米軍機の空襲が迫っている総員退去」と3百万の都市住民を追い立てた。紙幣を焼き捨てる印象的シーン2023/07/12
ホレイシア
3
不遜にも、こういう仕事がしたいと思った時期がちょっぴりありました。ほんのちょっとね。こんな根性なしに務まるわけないって。2008/01/04
Yasutaka Nishimoto
1
ポル・ポト派によるプノンペン解放でカンボジア国内を転々とさせられた都市部の人たちの中に、カンボジア人と結婚した1人の日本人がいた。一家が離散しながら日本へ帰国するまでの道のりは悲惨を極めるが、それを取材するのはベトナム人を妻とする日本人特派員であった著者。現在は民主化されたカンボジアであるが、ラオスを含めた元仏領インドシナからの難民流出についてなど、理解していなかったところがようやくつながった。2017/12/09