内容説明
中世以来、あまたの人々の心を捉え、読み継がれてきた『歎異抄』は、親鸞の弟子・唯円の手になる聞き書きである。しかし親鸞の教えと『歎異抄』の間には絶対的な距離があるのではないか。この距離の意味を考えない限り、「根元悪」の問題も、「悪人」の救済という課題も解けはしない―。著者による親鸞理解の到達点を示す力作論考。
目次
悪と罪
「宿業」と「不条理」
裏切る「弟子」
唯円の懐疑
唯円とユダ
正統と異端
個とひとり
「親鸞一人」の位相
「自然」と「無上仏」
唯円の行為
往生について
著者等紹介
山折哲雄[ヤマオリテツオ]
1931年生まれ。東北大学文学部卒業、同大学院文学研究科博士課程単位取得退学。国立歴史民俗博物館教授、京都造形芸術大学大学院長、国際日本文化研究センター所長などをへて、現在は国際日本文化研究センター名誉教授。専攻は宗教学・思想史(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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しんすけ
20
教育が知識の伝授でないことを、またもや思い知らされる読書となった。それは師と謂われる人だけでなく、弟子にも及ぶ問題であることだった。ある意味では、理解不可能な一面を持ったものなのかもしれない。なぜなら、唯円を親鸞の意を伝導するものとしての実力を疑っているような文章が散見されるからである。 弟子が師の意志を全的に把握しうるは不可能である。 本願寺八世蓮如が『歎異抄』を禁書にしたのは、誤解されやすい書であると察知したからだろう。 浄土真宗では「他力本願」を云う。これは「他に配慮する」であって他人任せではない。2022/07/25
シマ
0
生殺与奪の倫理観、人間は自身・群れの食欲を満たす以外に生物を殺害している。生殺与奪を生活の糧にしている人たちがいて、また私たちも「食べる」ことを通じてそれに加担している。食べる前に「殺す」という独自の過程が生じているともいえよう。殺害が食べる行為から切り離されてしまい、「悪」という認識が生じたのだろう。しかし善悪の基準は仏のみに許されており、煩悩にまみれた人間には、すべてが無常なのだ。だから、ただ往生を願い念仏を申すべし。そして、浄土に生まれ変わった確信を得たという往相から以降の宗教的生活が還相を指す。2023/03/15