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現代人に必要なのは、死に関する"情報"より、死では終わらない"物語"である『死では終わらない物語について書こうと思う』 (釈徹宗 著)【文藝春秋 本の話】

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 もう数年前になります。当時文藝春秋の編集者だった川村容子さんと初めてお会いした際、「私たち、お坊さんのお話を聞く機会がめったにないのです。お坊さんが語りかけるような本を書きませんか」と言われました。川村さんは身近な人の葬儀や法事で何度か僧侶の法話を聞いたらしく、そのイメージがあったようです。そんなわけで、お坊さんが「人の死」について教えを説くといった本を目指していたのですが、どうもうまくいきませんでした。

 やがて「看取り」や「葬儀」へとテーマが移行していき、川村さんと二人で新潟の長岡西病院(仏教版ホスピスであるビハーラ病棟がある病院)へと足を運んだこともあります。これはこれでとても興味深いものでした。

 二転三転する方向性の中、"死では終わらない物語"について書こうと思い至ったのです。

いまや「終活」は一大マーケット

 私たちのまわりには、死に関する情報が増加し続けています。
 なぜそんなことになるのでしょう。いくつか要因は考えられます。中でも、「延命治療についてどのような態度を表明するか」「末期における緩和ケアという選択」「エンディングノートの作成」「葬儀をどう考えるか」「お墓の問題」など、現代人は自分の死についてさまざまな自己決定を求められていることが大きいと思われます。死についての自己決定を「終活」などと呼称しますが、「終活」がひとつのマーケットとなるほどの事態です。

 このように現代は「死に関する情報」であふれています。しかし、その一方で「死に関する物語」はどんどん貧弱になっているのではないか、そこが以前から気になっていました。

真に必要なのは「情報」ではなく「物語」

 現代人は、情報を操作するスキルは熟達してきました。しかし、情報というのは、新しいものが手に入れば、それまでのものはいらなくなります。役に立たなくなるからです。使い捨てです。情報は決して我々の生や死を支えてくれるものではありません。

 これに対して物語は「一度それと出会ってしまうと、もはや無視することはできなくなる」、そんな性質をもっています。たとえば、死後の世界や幽霊の話などを聞いてしまうと、もうそれを意識せざるを得なくなるときがありますよね。お話上手な人からトイレの怪談を聞いてしまうと、その晩からトイレが怖くなる。昨夜までは平気だったのに......。誰しもそんな経験をもっています。

 知らない時なら気にならなかったのに、一度それと出会ってしまった限りは意識せざるを得ない。それが物語です。時には「こんなことなら知らない方が良かった」と痛感することさえあります。

 人間は「意味の動物」ですので、意味なしに生きていくことは非常に困難です。そして、意味を編み上げて体系化したものが物語です。死に関する物語が枯れている今、私たちはどこかで"死では終わらない物語"を求めているのではないでしょうか。

 本書では、そんな私たちの"死では終わらない物語"に関する宗教的琴線を探るため、「往生伝」に着目しました。「往生伝」から始まり、中世日本浄土仏教の来世観、近現代における死後の世界ブームにいたるまで、長い道のりをたどっています。あらためて「往生伝的なもの」は、今でも脈々と続いていることを実感しました。

 「今、宗教は物語る能力を取り戻さねばならない」、私はそう考えています。宗教が情報として消費されていく今日、物語に目を向けねばなりません。そこに本書の意図があります。本書では、〈物語り〉などと表記しているのですが、これはナラティブ(物語る行為)も含めているからです。豊かな〈物語り〉に耳を傾けてみましょう、という提言でもあります。

 そしてもし、「ああ、これは私のために準備されていた〈物語り〉だ」という出逢いがあれば、もはや他の〈物語り〉で代替することはできません。私にとって唯一無二の〈物語り〉となります。そこに宗教の救いが成立するに違いない、そんな本を書きました。

2015.09.30 書評で読む  くらし 社会