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歴史をかえた魔法の弾丸 『サルファ剤、忘れられた奇跡』 【ノンフィクションはこれを読め!HONZ】

サルファ剤、忘れられた奇跡 世界を変えたナチスの薬と医師ゲルハルト・ド-マクの

サルファ剤、忘れられた奇跡 世界を変えたナチスの薬と医師ゲルハルト・ド-マクの

ト-マス・ヘイガ-、小林力 / 中央公論新社
2013/03出版
ISBN : 9784120044793
価格:¥2,808(本体¥2,600)

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それは細菌感染に無力だった人類が初めて手にした"効く"薬。顕微鏡下の地道な探究が、戦場の様相を、医師の役割を、医薬品開発の仕組みを根底から変えた―「最も偉大な医学の勝利」をめぐる知られざる歴史のドラマ。

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生命科学や医学の領域では、物理学や数学のように天才は多くない。しかし、遺伝の法則を見つけ出したグレゴール・ヨハン・メンデルや、進化論を唱えたチャールズ・ロバート・ダーウィンは、まぎれもない天才だ。メンデルとダーウィンは、19世紀の中盤から終盤にかけて、その天才的な洞察力を発揮した。

この二人とほぼ同時代に活躍したルイ・パスツール、それに少し遅れたロベルト・コッホ、という仏独のライバルも、『微生物の狩人』黎明期における天才だ。そのコッホの弟子、パウル・エールリッヒという名をご存知だろうか。パスツールやコッホに劣らず、いや、独創性を天才の指標とするならば、その二人よりも一段上といってよいほどの天才なのである。

プロシアにおいて化学工業が隆盛を迎えた時代、エールリッヒは、細胞を『染める』ということを思いつく。細胞というのは、おおむね透明に近い。染色することによって、内部構造をふくめ、詳細な観察が可能になると考え、実際におおきな業績をあげた。しかし、エールリッヒの思考はそこにとどまらなかった。

いろいろな染料には、ある臓器の細胞だけを染めるとか、ある特定の病原微生物を染めるとかいった特異性がある。もしかすると、その特異性を利用して、病原微生物のみを殺す化学物質、すなわち『魔法の弾丸』を探し出すことができるのではないか、と、まで、エールリッヒの『妄想』はふくらんだのだ。生薬から単離されたキニーネ以外、そのような物質が全く知られていなかった時代、ぶっちぎりの独創性をもつ発想であった。

単なる着想だけなら、妄想と片付けられてしまうところだ。しかし、天才エールリッヒは違う。その考えに沿った研究を開始し、不治の病であった梅毒の治療薬についてのスクリーニングをおこなった。そして、弟子であった秦佐八郎が606号(サルバルサン)という駆梅薬を発見したのである。しかし、それで終わってしまった。その後、20年以上にわたって、エールリッヒの独創的な考えに基づく薬剤探索は成果を生み出さなかった。そして、ほとんどの会社は、当然のようにその戦略をあきらめていった。

第一次世界大戦後の経済状態が悪い中、唯一、その半ば見捨てられた創薬戦略を継続していた会社があった。それが、ドイツの化学産業を振興させるためにつくられたトラスト『IGファルベン』である。いまではポーランドの一部になっているドイツ東部出身の医師ゲルハルト・ドーマクは、その研究チームに参加する。決して、その戦略に魅せられたから、という訳ではない。病理医として貧しい生活にピリオドをうちたかった、というのが正直なところであった。しかし、そのドーマクが、天才・エールリッヒのアイデアを甦らせることになる。

衛生兵として第一次世界大戦に参戦していたドーマクは、戦場において、傷口から進入した細菌により命を落とす兵士たちをいやというほど見ていた。その多くは、連鎖球菌-ありふれた細菌で敗血症や扁桃腺炎などを引き起こす-によるものであった。IGファルベンに入社したドーマクは、その溶連菌感染に対する『魔弾』の探索にたずさわることになった。

ドーマクは、研究において優れた能力を発揮する。スーパー連鎖球菌とでもよぶべき毒性の高い細菌を単離し、その細菌を感染させたマウスに、化学者チームが合成した物質を投与し、その効果を次々と判定していった。効果がありそうな化学物質にいろいろな修飾が付加され、最終的に、治療効果が抜群のアゾ色素、真っ赤な薬剤であるプロントジルが著効を発揮することを発見した。

結果オーライではあったのだが、ドーマクたちのチームは、プロントジルのどの化学構造が抗菌作用に重要であるかについて、まったく誤った解釈をしていた。そして、その間違いに気づいたのは、なんと、過去の、そして、将来の敵国であるフランスのチームであった。後から考えると、どうしてドイツチームの誰もがそのような簡単なことに気づかなかったのか、不思議でしかたがない。しかし、優秀な科学者たちにとっても、先入観というのは、それほど大きいものなのだ。

ドイツチームのうけた打撃は大きかった。その情報がフランスからもたらされてから2年もの間、おもてだった反応をまったく示さなかったというのが、その衝撃の大きさを物語っている。しかし、フランスチームが効果ありとした化学物質は、あまりに構造が単純で、特許をとることすら困難であった。そのことを逆手にとり、ドイツチームは、たくみな特許戦略・宣伝戦略を展開して多大な利益をあげていく。

プロントジルを嚆矢として開発された抗菌性薬剤-いろいろな誘導体もふくめてサルファ剤と総称される-の効果は抜群であった。最初に試されたドーマクの愛娘を皮切りに、有名、無名をとわず、数多くの人の命を次々と救っていった。第二次世界大戦中の敵国首相ウィンストン・チャーチルの命も、その一つであった。ペニシリンがチャーチルの命を救ったという話が広まっているが、実際にはサルファ剤の誤りである。もし、敵国の科学者ドーマクたちがサルファ剤を開発していなかったら、チャーチルは1942年に間違いなく落命し、大戦後の世界はいまと違った姿を見せていたはずだ。

新大陸でもサルファ剤はひろく受け入れられた。しかし、あまりに広く使われたがための悲劇、サルファ剤そのものではなくてサルファ剤を飲みやすくするために混合された物質による死亡事故があいつぎ、何十人もの命が奪われた。そして、この薬禍が、FDA(米国食品医薬品局)の設置をもたらし、薬剤の効果や副作用についての認可制度へと発展していったのである。

サルファ剤がひきおこした悲劇は薬禍だけではない。ナチスの強制収容所において、サルファ剤の薬効を確認するための人体実験がおこなわれ、多くの人を傷つけ、多くの人命を奪った。1939年、ドーマクは『プロントジルの抗菌効果の発見』でノーベル賞に輝くのであるが、その受賞はナチスによって拒否され、実際に賞を受け取ったのは、第二次世界大戦が終了した後、1947年になってからであった。

それほど偉大な薬なのに、サルファ剤などというのは聞いたことがない、と、不思議に思われる方もおられるかもしれない。それもそのはず、現在ではほとんど使われることがない薬なのだ。理由は大きく二つ。構造が単純であるがために、耐性菌ができやすかったこと。そして、それ以上に、ペニシリンをはじめとする多くの抗生物質が開発されたこと、にある。しかし、その歴史的役割はきわめて大きなものであった。

タイトルに『奇跡の薬』とあるのは、その発見や薬効が奇跡的であっただけではない。創薬の方向性を決定づけ、特許戦略のありかたに影響を与え、悲劇をのりこえてFDA設置を促し、さらには、歴史をも変えた。これらの奇跡的な影響をも含意しているのだ。サルファ剤の歴史は、きわめて多方面において、実に多くの示唆をあたえてくれる。医学や薬剤に少しでも興味がある人にとって、これほど読み応えと含蓄のある本はない。


微生物の狩人 上

微生物の狩人 上

ポ-ル・ド・クライフ、秋元寿恵夫 / 岩波書店
1997/02出版
ISBN : 9784003392812
価格:¥842(本体¥780)

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上巻(現在上下巻とも絶版です)
細菌学の歴史はオランダ人レーウェンフックが手作り顕微鏡の視野に小さな生き物たちの姿をとらえた時から始まる.本書は以下,パストゥール,コッホ,メチニコフ,エールリヒなど主に病源体の追及によって人類に偉大な貢献をした十三人の「狩人」たちの人と業績をドラマティックに物語る.人物中心の優れた細菌学史.[出版社サイトより]

生命科学ノンフィクションの古典、名著中の名著。岩波書店は、この本を入手可能にする社会的責任があるとまで思う。

チャ-チルの亡霊 危機のEU

チャ-チルの亡霊 危機のEU

前田洋平 / 文藝春秋
2012/06出版
ISBN : 9784166608652
価格:¥961(本体¥890)

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第二次大戦後、イギリスの覇権を取り戻すべく欧州統合を画策する老獪なチャーチル。日本人の血を引く活動家クーデンホーフ伯と協力関係を結ぶが―迷走する欧州をEU成立前史の秘話から読み解く。

クーデンホーフ・ミツコの主人で『欧州連合』の理念をうちだしたクーデンホーフ男爵とチャーチルの確執。サルファ剤がなかったら、EUのあり方もちがっていたはず。

ビッグ・ファ-マ 製薬会社の真実

ビッグ・ファ-マ 製薬会社の真実

マ-シャ・エンジェル、栗原千絵子 / 篠原出版新社
2005/11出版
ISBN : 9784884122621
価格:¥2,484(本体¥2,300)

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巨大製薬会社が支配する医学界。そこにもたらされる巨額の収益。事実に基づいた明確な分析で製薬業界の隠された実態に迫る。[本書帯紹介文より]

現在の医薬品業界の限界と問題を、世界一の医学雑誌NEJMの元編集長が解説する。読み応えあり。

(『ノンフィクションはこれを読め!HONZ』 2013年3月31日掲載)

レビュアー 仲野 徹

1957年、「主婦の店ダイエー」と同じ年に同じ町(大阪市旭区千林)に生まれる。大阪大学医学部卒業後、内科医から研究の道へ。京都大学医学部講師などを経て、大阪大学大学院・生命機能研究科および医学系研究科教授。専門は「いろんな細胞がどうやってできてくるのだろうか」学。http://www.fbs.osaka-u.ac.jp/labs/nakano/ノンフィクション、とりわけ伝記が好き。それが昂じて専門誌に「なかのとおるの生命科学者の伝記を読む」を連載。単行本(学研メディカル秀潤社)として上梓したところ、成毛代表の目にとまりHONZに参加。書籍購入費の抑制、および、仕事と飲酒と読書のバランスとれた鼎立、が永遠の課題。


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ノンフィクションはこれを読め! HONZが選んだ150冊

ノンフィクションはこれを読め! HONZが選んだ150冊

成毛真 / 中央公論新社
2012/10出版
ISBN : 9784120044274
価格:¥1,404(本体¥1,300)

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2013.04.10 書評で読む