【じんぶんや別邸】 高山宏 選 「知識がアートになってどこが悪い?」
紀伊國屋書店新宿本店5階人文書売場のブックフェア「じんぶんや」。いつもは月がわりのこの企画ですが、この度、「じんぶんや」特別版として「じんぶんや別邸」を開催致します。別邸にお迎えするのは『新人文感覚1 風神の袋』(羽鳥書店)を上梓されたばかりの高山宏さん。通常の「じんぶんや」同様、エッセイをいただきましたので、ご紹介します。新宿本店5階に出現した"高山ワールド"、ぜひご堪能ください。
高山宏さんエッセイ「 知識がアートになってどこが悪い?」
神藏美子『たまゆら』(マガジンハウス、1998年)より。
高山宏『新人文感覚2 雷神の撥』の著者ポートレートとして使用。
![高山宏写真005[1].jpg](https://www.kinokuniya.co.jp/assets_c/2011/08/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%AE%8F%E5%86%99%E7%9C%9F005%5B1%5D-thumb-350x466-5595.jpg)
自ら唱える人生十五年四循説を実行するかのごとく、一巻のブックフェアともいうべき『ブック・カーニヴァル』(自由国民社、1995)からちょうど十五年目の節目に、似たようなブックガイドともなる総合人文学のコンピレーション・ブックの構想を立て、想定外の規模となったため『風神の袋』、『雷神の撥(ばち)』という二冊に分けて書店頭に贈ることとした。雑菌活躍が両足にきて歩行に困難をおぼえ、かえって机を前にした読み書きに集中できるかと覚悟していたが、併行して加齢黄斑等、眼疾も重く進行してしまい、文字にかかわる大きな仕事はいよいよ終りの段階に入ったようである。『ブック・カーニヴァル』に「生前贈与」の帯文を付けたは担当編集者の実に気の利いた洒落というところが半分あったが、今度は本気に知の身辺整理と心得て、前代未聞の総合人文学の一大パノラマを幻出せしめることとした。
従って風と雷の「神書」の途方もない目次は、これをめくるのが億劫という御方は、この「じんぶんや」のフェアの書棚を眺めればよいのである。この十五年にわたって不幸な学魔が風神雷神書に一挙まとまる文業のため、集めかつ捨て、並べ、また並べ直し並べ換えてきた五竽の本箱のほとんどすべての和書の背表紙が紀伊國屋書店の栄光の一隅に再現されるものと信じる。五竽中、半ばは洋書である。今回和書のラインナップ相当か、明らかにそれ以上のレヴェルの洋書たちがつくる芳醇濃厚の澱(おり)ゆえ、またの機会を捉えてこれはこれでお目に掛ける機会もあろう。お愉しみに。
いくつかの大学で教えながら読まずにすませられぬ「基本書」とぼくの信じる本を紹介しつつ、どこにも見つからないという学生諸君の嘆きを聞き通しで、いつもその分をこちらでコピーし、教材ふうに編集して配る癖がついて、この自称「コンポジション」コピー(A3)約五千枚も、怪我の功名というのか、いつの間にかぼくの講演や教場での名物となった。教師一人の一年分の講義がA3コピー表裏の一枚に濃縮されておさまるのである。
しかし、たとえば今回このブックフェア企画に即イエスと答える理由のひとつとなったマニエリスム現象学哲学者、グスタフ・ルネ・ホッケ著『迷宮としての世界』(1957。邦訳、美術出版社、1966)だが、どうあってもその全体を読み通すのと、一部を適当にコピーで眺め多分アア難シイで終るのとではまるで、読むことの意味がちがってくるのだ。だからホッケの歴史的名著が昨年末から今年年頭にかけて岩波文庫というこれ以上願ってもない形で再び汎く読めるようになるという事態がなければ、いつも本の塊を考える時、ホッケから考え始めるぼくが、このブックフェアにゴーサインを出したとは今も考えにくいのである。
マニエリスムをこの大変断片化して全てが統括しにくくなった二十一世紀新千年紀劈頭の生きる知識、死なぬ知恵として勉強し、読んだ「ホッケ」教徒一人びとりが日々血肉化していって欲しいと願っての二百点選書である。たとえば今さらながらに「境界越え」をキーワードにしてみた。インタディシプリナリー。冷たい言葉だ。学際という訳語も野暮だ。そうだ、今なお人文のトップランナーたるジョージ・スタイナーに倣って「エクストラテリトリアル」(テリトリーを越えて)で行こう。なんのことはない、新人文学を興作せよというスタイナー流のキーワード、即、マニエリスムの根本定義に他なるまい。マニエリスム(やバロック)を今でも一部芸術史の狭いテーマに跼蹐(きょくせき)させんとする(終りの時代に到底信じがたい愚鈍の)徒輩が多いのは如何したことか。
ばらばらになっていく世界に直面し絶句したまま枯死していくことのないように、マニエリスムを学の対象とし、知の方法とし、日々を考えさせる具とする情報の入れ方、材料の組み合わせ方を考えよ。ホッケの『絶望と確信』に倣い、「確信」に向う「絶望」の知がたしかに存する、と、ぼくの狭い知識観からさえいえる。今はそれをマニエリスムと呼んでおくというだけのことだ。
マニエリスム(やバロック)ってアートの形式だろう? 成程、それはそれで結構。では学や知をマニエリスム・アートにしてみようよ、とぼくは言っているのだ。ぼくは先達、玄月松岡正剛氏の連塾で、世界的ダンサー勅使川原三郎のダンスとぼくの学会レクチャー(のようなもの)が拮抗する瞬間に、自分は学ではなく最広義のアートに属することをやりつつあるという実感を得た。今次選書のための感覚的先達は「精神史」の林達夫氏と『本の神話学』の山口昌男氏であるが、林氏がそういう独白にエクストラテリトリアルな読書知のありようを「作庭」と呼び、山口氏が同じ傾きを持った学知の広がりを「文化の詩学」と呼んだことの、達した人たちの「アルスARS」感覚をこそ、このブックフェアはささやかながら引き継ぎたいと思う。
絶版書を多く含み、古書部門が苦労しても仲々集まらないぼくのいつものブックフェアのパターンを今回はあっさり止揚して、とにかく入手できる範囲での最善を尽くした。もう一度いうが、このブックフェアは、危機感のなさ、方法的惰性、各自のアンテナの悪さによって、(実はそんなものは今さらかけらもない)「人文の危機」を招来した世界とは、個人的な博搜と沈潜とを通じ一切無縁にひたぶるなる脳髄の快を追求してきた経過の報告書、一冊の巨大書の目次、ないしカタログというつもりである。ちなみに「新人文感覚」という共通の題を持つ全二巻の第一巻(『風神の袋』)は「ホモ・アンブランス(歩くヒト)になる」、「見ることに洋の東西はない」、「見えるものはこんなにも楽しい(Ⅰ)」、「庭のように世界を旅する」、「家が<うち>と呼ばれるとき」といった各章から出来ており、今秋終り刊行の第二巻(『雷神の撥』)は「たかが英文学、されど英文学いのちがけ」、「アリス・イン・ジ・アンダーグラウンド1960s」、「マンガは萬画である」、「見えるものはこんなにも楽しい(Ⅱ)」、「ホモ・リーデンス(笑うヒト)になる」、「マニエリスム、今日は(こんにちは/きょうは)」の各章構成で、大量投入の図版を通覧していただくだけで、分断されたものが蝟集してグロテスクな総体を捏造していくのが世界なりとするマニエリスム感覚生成の理論と歴史を、「夥(おびただ)しさの図像学」を悠々と拾い、たどってみせたものと知れ、たちまちこのブックフェアの六つの小見出しキャッチと寸分違わないことが判ろう。
選書の最後の一冊は選書リスト提出の〆切りの朝、ドカンっと届いた碩学ウンベルト・エーコの『芸術の蒐集』(2009)邦訳書(東洋書林)だった。二十世紀末アカデミーが行きついた記号学の方法とマニエリスム・アートの表現が、方法と材料、主客渾然と化したその目次を一瞥、ぼくはからからと哄笑した。そう、ぼくの十五年が世界のエーコと間然なくエコーしているのを見て、これを笑わずにいられるかい?そうなると、このブックフェアも、ささやかながらに世界とエコーしているのかも!
高山宏(たかやま・ひろし)さん プロフィール
1947年生まれ。明治大学国際日本学部教授(視覚文化論)。学魔。
著書に、『アリス狩り』(青土社、新版2008)、『ブック・カーニヴァル』(自由国民社、1995)、『高山宏椀飯振舞I エクスタシー』(松柏社、2002)、『近代文化史入門――超英文学講義』(講談社学術文庫、2007)、『超人高山宏のつくりかた』(NTT出版、2007)、『かたち三昧』(羽鳥書店、2009)など多数。訳書に、サイモン・シャーマ『風景と記憶』(栂正行との共訳、河出書房新社、2005)、バーバラ・M・スタフォード『グッド・ルッキング ―― イメージング新世紀へ』(産業図書、2004)/『ヴィジュアル・アナロジー ―― つなぐ技術としての人間意識』(産業図書、2006)/『ボディ・クリティシズム――啓蒙時代のアートと医学における見えざるもののイメージ化』(国書刊行会、2006)/『実体への旅――1760年‐1840年における美術、科学、自然と絵入り旅行記』(産業図書、2008)、最新刊のロザリー・L・コリー『パラドクシア・エピデミカ――ルネサンスにおけるパラドックスの伝統』(白水社、2011)など多数。
「観相学やら聖俗学やらを、語源風神が吹き飛ばす。高山見ずして、本読むな。」――松岡正剛(帯より)
18世紀、「歩く」・「見る」ことから一挙に花開いていった、観相学(フィジオノミー)の発達、推理小説の技術革新、ピクチャレスクの旺盛、百科総覧による視覚文化の横溢を、洋の東西を往還しながら、絢爛豪華に展開。
高山宏さん選書コメント※一部
人々が目でものを見るようになったことがどう権力を変え大衆文化を変えたか、統括的な大視野から通覧する「視覚文化史」というアプローチが切望されてきた中、ついに登場した模範的大著一冊。17-18世紀論圧倒的。
何でもありの「メディア美学」で今世界をリードし始めたドイツ新人文学の胎動を象徴する天才が、ヴィジュアルから遠いイメージの積分数学者の強烈なヴィジュアル志向を明るみに。愕然たる一書。訳者の入れこみにも拍手。
ボディ・クリティシズム 啓蒙時代のア-トと医学における見えざるもののイメ-
バ-バラ・M.スタフォ-ド、高山宏 / 国書刊行会
2006/12出版
ISBN : 9784336048172
価格:¥8,640(本体¥8,000)
信じがたい博学博識の限りを尽くす書き換え近代論で本ごとに思いきり楽しませてくれる英語圏新人文学のスーパースター。17-18世紀への超領域的アプローチの極限からやがて脳科学最前線へ突入する新人文の道、鮮烈。
近時話題の脳科学成果浸透の中でも、人文科学にとって大きな関心の対象たらざるを得ないミラーニューロン論最良の入門書。お芝居を見て、自分では演じないのに演じたのと同じ効果がうまれる秘密は?演劇論一変へ。
「B級図像」に最良の「アマチュア」感覚で挑み続け、『想像力博物館』で世界的なレヴェルを突き抜けた怪物がこれ以上ないおいしい話題つらねて「美術史」学の盲点を衝いた。某大学での噂の講義の講義録。「鏝絵(こてえ)」発掘。
かつて英文学界で鬼才の名をほしいままにした著者が、徹底したネット依存で芥川文学の読み換えを達成。次々ネット上に浮かぶ見慣れぬ材料を一本の線につないでいく著者の洞察力に拍手。新時代の文学研究の一局面開く。
著者学生時代の名著奇著濫読耽読ぶりは伝説的。時代流行の批評理論と付き合った時期を経て一挙、各界の人的交流を通して文化がつくりあげられていく山口昌男流文化交流史の方法と記述法にはじけたっ!後世恐るべし。
高山宏さんコメント
秋葉原殺人、クール・ジャパン、不況、天災。明日わからぬ現日本の状況を統括的に考えさせてくれそうなキーワード<マニエリスム>。その最も現代的な問題性をすくいとった世紀の名著が文庫で読めるなんて。神様有難うだ。
近時さかんなマニエリスム研究、アーリーモダン(17-18世紀)研究の精華と、ここまでやるかというメタフィクションの禁じ手が交錯する「小説」を推す中にも別格の一作。文学とは、絵とは、表象とはと根元から問う。
Children's Encyclopedia (1908-10), Part 1 : Vol. 1-5
Mee, Arthur (EDT) / Eureka Press
2009/01出版
ISBN : 9784902454499
20世紀初めの一大教育革命の立役者、独学独行の大編者が編んだ、有名画家結集の挿絵入り百科。アルファベットで引かない百科を眺めて、情報とは何か、検索の利便とは何かから、帝国主義と初等教育の関係まで分る。
【じんぶんや別邸】 高山宏 選「知識がアートになってどこが悪い?」
場 所 紀伊國屋書店新宿本店 5階A階段横壁棚
会 期 2011年8月9日(火)~10月14日(金)
お問合せ 紀伊國屋書店新宿本店 03-3354-5700(5階直通)
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「じんぶんや」とは?
こんにちは。じんぶんやです。
2004年9月、紀伊國屋書店新宿本店5階売場に「じんぶんや」という棚が生まれました。
「じんぶんや」アイデンティティ1
★ 月 が わ り の 選 者
「じんぶんや」に並ぶ本を選ぶのは、編集者、学者、評論家など、その月のテーマに精通したプロの本読みたちです。「世に溢れかえる書物の山から厳選した本を、お客様にお薦めできるようなコーナーを作ろう」と考えて立ち上げました。数多の本を読み込んだ選者たちのおすすめ本は、掛け値なしに「じんぶんや」推薦印つき。
「じんぶんや」アイデンティティ2
★ 月 が わ り の テ ー マ
人文科学およびその周辺の主題をふらふらと巡っています。ここまでのテーマは、子どもが大きくなったら読ませたい本、身体論、詩、女性学...など。人文科学って日々の生活から縁遠いことではなくて、生きていくのに案外役に立ったりするのです。
ご愛顧のほど、どうぞよろしくお願いします。
「じんぶんや」バックナンバー
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~ただいま開催中~【じんぶんや第73講】篠原雅武 選「空間のために」
場 所 紀伊國屋書店新宿本店 5階カウンター前
会 期 2011年8月13日(土)~9月上旬
お問合せ 紀伊國屋書店新宿本店 03-3354-5700(5階直通)