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ブックレビュー-社会・思想
『国家とはなにか』
萱野稔人


ありそうでなかった独特の国家論

北田暁大 Akihiro Kitada

『国家とはなにか』
『国家とはなにか』
萱野稔人著/以文社
2,730円(税込)
ISBN4753102424
   
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 「政治哲学の根本問題は、苟も何らかの国家がなければならないのかどうかにあり、この問題は国家がいかに組織されるべきかの問題に先行する」とロバート・ノージックは言った。それは、国家なるものの存在を与件としたうえで、その組織の仕方や機能のあり方を検討する政治哲学への異議申し立て、政治哲学の「心理学化」「社会学化」に対する警鐘であったといえる。

現実の国家状態を前提としつつ、その機能を抽出し、機能の円滑な実現を目指したり、国家をとり巻く環境と照らしあわせることによって、「よりましな」国家のあり方を模索したりするタイプの国家論。ノージックは、そうした国家論が見えにくくしている根本問題を掘り下げ、独自のリバタリアニズムを構築していった。このノージックの方法論的なラディカリズムは今なお理論的な魅力を失ってはいない。

  しかし、ノージックの問題提起から三十年たった、私たちをとり巻く言説環境において、国家は奇妙な形で見すごされてはいないだろうか。もちろん、国家の自明性を疑い、その存立機制そのものを問い返す議論は提示され続けている。

一方にはノージック的国家論をさらに精緻化していくような政治哲学的な国家論があり、一方には近代的な国民国家の自明性を解体していくポストコロニアル批評、カルチュラル・スタディーズなどの試みがある。とりわけ後者は、ここ十年あまりの人文系アカデミズムにおいて主流化しつつあり、私たちはあくなき「ネイション・ステートの脱構築」を体験し続けている。

しかし、想像の共同体としての国民国家批判は、ある意味で、国家をめぐるディスクールを「社会学化」する機能をはたしてしまったのではないか。国民国家は言説によって構成される想像の共同体である――この論理は、一定の批判的役割をはたしつつも、同時に、国家を社会(言説の生産システム)へと還元することによって、国家をめぐる機能主義的語りを再生産し、「国家とは何か」という根元的な問いを不可視化させてはこなかっただろうか? 

仮に言説と異なる固有の存在力学を国家が持っているとすれば、逆説的なことに、国民国家批判はその力学を温存することとなってしまう。――誰もが薄々気づきつつ、対峙することを回避してきたこうした疑念を正面から見据え、ノージックとは異なる形で「政治哲学の根本問題」に取り組んでいるのが、萱野稔人『国家とはなにか』である。

  萱野の方法はかなり独特なものだ。彼は「なぜ国家が存在するのか」という根元的な問いの水準にまで切り込みつつも、ノージックのような規範論的な問題設定を回避する。出発点は、「国家とは、ある一定の領域の内部で――この「領域」という点が特徴なのだが――正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である」というマックス・ウェーバーの社会学的定義である。社会学的な国家論が「なぜ国家が存在するのか」という問いを不可能にするというノージック的認識とは異なり、萱野はこのウェーバーの定義をヒューリスティックな出発点に定めたうえで、その定義を内破していく。

萱野によると、国家とは、暴力を組織化し集団的に行使するメカニズムであり、いわば「暴力」が自己を貫徹するための手段と考えられる。したがって、「国家が暴力を行使するのではなく、暴力が特定のあり方において行使されることの結果として国家をとらえなくてはならない」(三八頁)。社会契約論的に自然状態の思考実験から、「国家とは何か」をめぐる規範的考察を進めるのではなく、ウェーバー的機能論の根源(=暴力)を掘り下げることによって機能主義を越える国家論を探究すること。「社会学的な(国民国家論的な)政治理論に限界があるから、規範論に行く」という安易な道筋をとらず、萱野は社会学的思考を突き詰めることによってその論理を脱臼させていく。ありそうでなかった独特の方法論的なポジショニングである。

  規範論(べき論)への単純な回帰を拒んだがゆえに、萱野の国家(理)論は、問いのラディカリズムを保持したまま、社会学的な説明能力を十二分に発揮することができている。それは政治哲学的な規範論と異なり、現実政治に対して饒舌であることができる。国境やナショナリズム、セキュリティ、租税、グローバリゼーション……。方法論的な暴力主義によって、こうしたリアルな現象に対して、新たな認識の光が次々と当てられていく。現実についての説明能力なき規範論と、問いのラディカリズムなき社会(学)的国家論のいずれにも与することなく、『国家とはなにか』は「国家をどう考えるべきか」「国家をなぜ考えなくてはならないのか」を読者に遂行的に指し示す。「社会学から、規範論へ」という道筋を採ってしまった書き手として、萱野の理論的意志に素直に嫉妬したいと思う。

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