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ライターズワークショップヘようこそ〜創作の技法・学習法

ポール・イングル   創作教室を世界に広めた男

              
三浦清宏 Kiyohiro Miura
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 ぼくがアイオワ大学の創作教室に入ったのは一九五七(昭和三十二)年である。今から四十八年前のことだ。この時は学生だったが、それから三十四年後の一九九一年にインターナショナル・ライティング・プログラム(IWP)という、海外から詩人や作家、翻訳家が集まって半年間一緒に暮らす催しに参加した。このどちらも、ポール・イングル(Paul Engle)という詩人で英文学の教授が作り上げたものである。

  彼のことを知ったのはぼくが一九五五年にカリフォルニアの小さい大学の創作教室にいた時である。あるとき「ライフ」(一九三六年創刊のアメリカのグラフ雑誌)に第二次大戦後盛んになった大学の創作科の代表としてアイオワ大学の詩の創作教室と、そのディレクターで、全米で初めて卒論の代わりに詩を書いてMFAという修士号を受けられるようにしたポール・イングル教授の記事が大きく載っていた。学生の「Pots and Pansの面倒まで見る」と書いてあった。「鍋釜の面倒を見る」という言い方が英語にもあることを知ったのはその時である。

  その頃ぼくは歴史科を卒業して英文科に再入学し、詩の教室に入って詩を書き始めていたが、これから先どうしたらいいだろうかと思い悩んでいた。「ライフ」の記事を見て「これだ」と思った。その頃はT・S・エリオットが大流行し、ぼくも「荒れ地」ばりの二十ページにわたる詩を書いていたので、それをイングル先生に手紙と共に送り、詩の教室への入学を頼んだ。

そういう冒険的なことが好きな先生だったのか、それとも当時サトル・サトウさんという日本人が彼の指導の下に日本の現代詩のアンソロジーを「ポエトリー」という詩の雑誌に載せたためか、ぼくの入学を許可してくれ、授業料まで免除してくれた。ぼくがアイオワに行くと何度も自宅に呼んで外国からの詩人や作家に紹介してくれたり、自分が書いた原稿をタイプする助手にしてくれたりした。たしかに「鍋釜の面倒まで見て」くれたのである。

  だが、それに対する見返りも彼はきちんと求めた。「ギブ・アンド・テイク」のアメリカでは当然なことかもしれないが、彼のやり方は学生たちの間では評判が悪かった。たとえば資金集めにスポンサーの前で学生に詩を朗読させたりしたのである。ぼくの場合は、彼や彼の学生たちを「とうもろこし畑の詩人」と呼んで嘲弄するビート詩人たちの一人、ケネス・レックスロスが翻訳した百人一首を論難する文章を書かせた。「厳しくやれ」と彼は言った。

彼はそのエッセイを自分の紹介で、助手にポエトリー誌に送らせた。幸いというか残念というか、編集者の丁重な断り状と共に送り返されて来た。翌年、ぼくは彼の奨学金を倍にしてやるという誘いを断ってニューヨークに行ったが、彼のやり方に不満だったというより、英語で詩を書くのに限界を感じ、早く日本に帰って日本語で書いたほうがいいと思ったのと、ちょうどアイオワにフルブライト基金で来ていた小島信夫さんから、ぼくの日本語が古いと言われたからである。今でもときどき、あの時ポール・イングルの言ったとおりにアイオワにいたらどうなっただろうかと思うことがある。たぶんアイオワ大学か、ほかの大学の先生になって、日本文学を教えるか、英語で詩やエッセイを書くのに苦労していただろう。

  イングル先生はその後一九六七年に前述のIWPを立ち上げた。これは以前から彼が海外の文学者たちをアイオワに招待していたのを拡大したもので、毎年秋に三十人近くをアイオワ大学に呼び、一学期間講演や授業参加、自作朗読、または小旅行などの行事に参加させる。莫大な費用がかかるので国務省などの援助や民間の基金、企業の寄付などで賄うのである。

寄付金集めは創作教室の草創期からイングル先生の最大の関心事で、学期中もそのために飛び回っていた。小島信夫さんなどは「あの人は本当に詩人なんだろうか」と首を傾げていたが、ポール・イングルは若い頃、「キーツの再来」と言われたこともあったのである。ただ彼にはアイオワを世界の文学活動の一大中心地にしたいという強烈な愛郷心があった。

  彼についてはいろいろなことが言われているが、アイオワの創作科の名を全米にとどろかせ、世界にも知らしめたことは間違いない。今では彼の名を冠した州の記念日やIWPのフェスティバルなどがある。一九七六年にはノーベル賞候補にも推薦された。アイオワには日本からも数多くの詩人、作家が招待されていて、ごく最近では水村美苗、島田雅彦、吉増剛造(再)氏等が行っている。

  イングル先生は空港が大嫌いだったが、一九九一年に表彰を受けるためにポーランドへ行く途中、シカゴの空港で心臓発作のため亡くなった。享年八十二歳。

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