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essay

空想の都市建築史
最終回

八つ墓村/犬神家―非対称性の社会学

内田隆三  Ryuzo Uchida
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二つの作品

  横溝正史の著作のなかでもっとも人気が高く、また書かれた時期も重なっている二つの作品がある。『八つ墓村』(一九四九年〜五一年)と『犬神家の一族』(一九五〇年〜五一年)である。両者ともに日本近代の地方に深く残る「習俗」の世界が物語の舞台となっている。地域の中心に位置する家父長制的な「家」がその継承をめぐって瓦解していく過程――それがこれらのミステリーの現場になっている。そこで演じられるのは柳田国男のいう「家殺し」(domi-cide)であり、ある意味で太平洋戦争の敗戦による社会変容の内面を如実に照射している。しかも両作品の犯人はともに女性である。苛烈な「家殺し」は家の中心に立つような女性によって行われるのである。

  この二つの作品は、いずれも横溝が地方に移り住んだときの経験や見聞を下地にしている。一九三四年七月から三九年一二月まで、五年半ほどのあいだ、横溝は結核の転地「療養」のため、長野県上諏訪に移り住んでいる。また一九四五年四月から四八年八月まで、三年半近く、横溝は東京への空襲を逃れ、岡山県真備町岡田村に「疎開」している。二つの作品はのちに東京で書かれたものだが、『犬神家の一族』は信州諏訪を、『八つ墓村』は岡山県の山村を、物語の主な舞台にしている。それらの土地の風物や出来事は二つの作品に微妙な刻印を与えている。

  「八つ墓村」は岡山県の鳥取県境にある山村である。物語の発端にある田治見要蔵の三十二人殺しの事件のモデルとなった現実の「津山事件」も―一九三八年五月に起こった大量殺人事件で津山署が捜査を担当した――岡山県苫田郡西加茂村という鳥取県境近くの山村で起こった。「岡山で山陽線から伯備線へ乗り換えて数時間、Nという駅で私たちが汽車を降りたのは午後四時をすぎたところだった」と書かれているように、「八つ墓村」へ行くには、それからバスに一時間乗り、さらに歩いて半時間かかるという。このN町に警察の拠点が置かれ、磯川警部もそこから八つ墓村の現場へやってくる。しかし、Nが岡山から数時間の伯備線の駅だとすると、そこから津山事件の現場となった西加茂村までは遠すぎるといえよう。県境の山村の生業の類似はあるが、物語は津山、因美線ではなく、新見、伯備線に沿って描かれている。

  他方、「犬神家」というのは、信州那須湖畔に本拠を置き、信州財閥の巨頭で、日本の生糸王と呼ばれた犬神佐兵衛の一族である。「那須市はいまでこそ市になっているが、十年ほどまえは、上那須と下那須とにわかれていて、犬神家のあるのは上那須のはずれだが」と書かれているように、「那須」は諏訪をモデルにしている。諏訪には製糸業で財を成した片倉財閥の本拠があった。片倉家を「日本のシルク・エンペラー」に押し上げた二代目片倉兼太郎こと片倉佐一の名の「佐」の字が興味を引く。「犬神家」では生糸王、犬神佐兵衛から、「佐」の字が孫の佐清、佐武、佐智らに引き継がれる。「犬神家」の那須湖畔にある和・洋を重ねた邸宅も、片倉佐一が諏訪湖畔に建てた和風の別荘や洋風の片倉館のイメージを連想させるかもしれない。

同一性の不安―動機のたわむれ

  『八つ墓村』と『犬神家の一族』という二つの作品の直前に、『夜歩く』(一九四八〜四九年)という作品が書かれている。それは前二者の奇妙な混合物のようになっており、両者の分岐を考えるうえで注目される作品である。『夜歩く』の主な舞台は、東京の西郊、小金井にある「古神家」の屋敷と、古神家の本拠である「岡山県の鳥取県境にある山間部落」とされる「鬼首村」である。旧幕時代、その地方に所領をもっていた「古神家」の一族が凄惨な事件に巻き込まれる。『夜歩く』自身の個性は、クリスティーの『アクロイド殺し』の日本版のように、「犯人=語り手」という形式にある。しかし『夜歩く』という作品の重要性は、『八つ墓村』と『犬神家の一族』という二作品に分節される以前の、未分化のミステリーが凝結していることにあるだろう。

  『夜歩く』のうち、どのような要素が『八つ墓村』に流れるのかというと、物語の構図、とくに「動機」にかかわる部分である。「古神家」は、その表記が「犬神家」と似ているが、実態は『八つ墓村』の「田治見家」と同じく歴史的な旧家である。「犬神家」は明治近代に起こされた新興財閥にすぎない。「古神家」の領地ではかつて百姓一揆が多発したが、強訴した農民の代表が打ち首にされ、その霊を鎮めるためにつくられた「四人衆様」という神社が今も残っている。これも「八つ墓明神」として祀られる、殺された落武者たちの伝説と類似している。「無差別殺人」の動機はどこかで個人的な主体の合理性を越えており、狂気や錯乱に近づくのだが、そうした狂気や錯乱の発生に理解可能性を与えるのが「四人衆様」や「八つ墓明神」の祟りという言説であった。

  『八つ墓村』の場合は犯人の「動機」の同一性をめぐるトリックに特色がある。横溝正史は上諏訪時代に書いた『人形佐七捕物帳』シリーズ第一作の「羽子板娘」(一九三八年)という作品で、クリスティーの『ABC殺人事件』のような「動機の恣意性」(無差別殺人)というトリックを援用している。「ABC殺人」とは被害者をアルファベット順にまったく恣意的に選択するものである。それは「童謡殺人」に見られる特定のテクストへの準拠=偏好の痕跡も消し去り、犯人の動機の無差別性(ノンセンス)をいっそう強調するだろう。坂口安吾も「ABC殺人」の形式を用いて『不連続殺人事件』を書くが、横溝の『八つ墓村』は動機の偽装をさらに巧妙なものにしている。また、『八つ墓村』ではABC殺人の形式にもうひとつの要素が加味される。殺人のシナリオを書いたのは犯人とはまったく別の人物だからであり、この点はクイーンの『Yの悲劇』と同じ構図になっている。

同一性の不安―身体のたわむれ

  『夜歩く』から『犬神家の一族』に流れていくのは、むしろ犯行の「トリック」である。それは『赤毛のレドメイン家』(フィルポッツ)、『赤い館の秘密』(ミルン)、あるいは『復讐の女神』(クリスティー)に遡るような、犯人や被害者の「身体」の同一性をめぐるトリックである。この種のトリックは、犯行の物理的な不可能性を、心理的錯視あるいは社会的な仕掛けによってくぐり抜けていく。それは横溝が傾倒していたディクスン・カーの「密室殺人」の形式と通じるものがある。この点で横溝を苛立たせたのは高木彬光の『刺青殺人事件』の成功と思われるが、そこでは密室状態の浴室に「胴体のない死体」が残される。『夜歩く』では、「首のない死体」を用いて、被害者を他の人物と入れ替えることによりアリバイや動機の偽装が行われた。この種のミステリーの核心は犯人や被害者の身体の同一性のたわむれにある。

  『犬神家の一族』では、ミステリーの核心は二人の人物の身体的な同一性のたわむれにある。すなわち、戦争で顔面の潰れた青沼静馬は「仮面」を被って犬神佐清になりすまし、犬神家に入り込む。静馬は「復讐」と同時に財産の横領を狙うのである。仮面の男が果たして犬神佐清かどうかを確定する手段として「指紋」や「奉納手型」などがあるが、静馬と佐清の二人は、適宜入れ替わることにより、こうした痕跡の物理的な解読格子をすり抜けていく。つまり「仮面」を被った男は一人ではなく、二人だったのである。静馬と佐清――どちらか一方が仮面の男になり、そのとき他方は他の場所に隠れていた。佐清が静馬に協力したのは、母の松子夫人を守るためであった。

  戦前の『面影双紙』『鬼火』、戦後の『黒猫亭事件』、『車井戸はなぜ軋る』、『悪魔の手鞠唄』なども、身体の同一性をめぐるトリックを用いている。だが、それはたんなるトリックではなく、人間の「同一性の不安」にかかわる言説となっている。たとえば『面影双紙』では、二枚の写真が示す不義の父と子の双数的な「酷似」が怖ろしいミステリーを暴くことになる。『八つ墓村』でも主人公と不義の父のあいだに類似の図柄が描かれる。そこで個人の同一性を確定することは、むしろ個人の同一性を「血の同一性」へと解消することに重なっている。個人がその同一性を帯びるのは、じつは個人の輪郭がぐらっと揺らぐ瞬間なのである。

  他方、『鬼火』や『犬神家の一族』では、大事故や戦争によって身体をひどく損傷し、かつての同一性の外観を失った人物が登場する。「仮面」はこの欠如を補するもののようでいて、じつは同一性の欠如そのものを明示する記号になる。これらの人物の同一性はそれをむ空白(仮面)を軸にして次第にたわむれはじめる。たしかに人の同一性は内面に根ざしており、外観だけによるものではないはずである。だが、外観の同一性がなくなると、人というものが本当のところ何者であるのかわからないという不安がこれらのミステリーにひそんでいる。人々を無差別殺人の被害者にも加害者にもする戦争を通じて、習俗の社会にもこうした不安の渦が広がっていたのである。

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