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hyoron
空想の都市建築史
第六回

幻のオリムピック(下)

橋爪紳也  Shinya Hashizume
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神宮外苑の総合競技場計画

 しかし第一候補の代々木は陸軍の協力が得られないことが示された。そこで第二候補である千駄ヶ谷の民有地取得の可能性を調べることになったが、これも実現性は薄いと判断されたようだ。紆余曲折の末、昭和十二年四月二十六日の小委員会にあって、当初の計画でもあった神宮外苑競技場の改築案ですすめることが確認された。

 この判断に落胆した人たちがいた。たとえば先の岸田日出刀は昭和十二年十月に刊行した自著において、「オリンピックを機会に新に総合競技場を建設するといふ理想が諸般の事情から実現されないことは遺憾至極」であると嘆いている。新規に建設するならば皇紀二六〇〇年を記念するモニュメントとして永久に残るのだが、「時すでに遅し」であると書いている。またベルリンにあったような広場も断念せざるを得ず、すべては「空々夢の如し」だと嘆いている。

 ところが外苑施設の改築案に対して、今度は内務省神社局が異議を唱える。明治天皇を祭祀した聖地にあって風致を乱すことは認められない。風致上、管理上の問題に加えて、外苑は「国民の浄財で造営された記念物」であり、改造計画案に同意できないというものであった。内務省は外苑に接続する民有地を買収し、新たに競技場を建設するという独自案を提出するが、しかし短期間での家屋移転が難しいということで実現には至らない。

 対して組織委員会は競技場改修費用はすべて明治神宮に奉献すること、仮設スタンドは終了後に撤去すること、神社境内でふさわしくない行為はしないなどの条件を示すが理解は得られない。折衝を重ねた結果、四百五十三万円あまりを費やして既存の施設を改修、五万数千人を収容するスタジアムとする新たな内務省案が示されるが了解されるわけもない。そもそも十万から十二万人を収容する巨大競技場が想定されていたのに対して、あまりにも縮小することになるからだ。


駒沢の総合競技場計画

図4
図4 駒沢オリンピック競技場配置図
図5
図5 東京オリムピック村配置図

 ここにいたって浮上したのが、約十三万坪の広さがある世田谷の駒沢ゴルフ場跡地であった。昭和十三年四月二十三日、組織委員会は外苑案を正式に放棄し、メインスタジアム、水泳競技場、選手村などを含む一大スポーツセンター「紀元二千六百年記念総合競技場」を建設する構想をまとめる(図4、5)。

 メインスタジアムは常設観覧席六万二千席、仮設スタンド四万八千席、合計十一万人を収容する世界最大級の競技場である。水泳競技場は消波設備を備えた競泳用プールと飛び込み用プールがあり、三万人のスタンドを設ける予定であった。両施設のあいだに七千五百坪もの広さがある「紀元二千六百年記念広場」の建設が想定された。

岸田の好んだ「広場」がここに復活する。そこにはオベリスク風の記念塔を建設、あわせて東京オリンピック招致の功労者である故・嘉納治五郎の記念碑を建立することも検討された(図6)。 

そのほか神田駿河台に室内運動場と室内プールからなるオリンピック体育館、芝浦埋立地に自転車競技場などを設けることも決定した。市は施設費千二百十三万円を計上している。各会場に通じる道路の拡幅のほか、地下鉄を駒沢まで延伸する計画も議論された(図7)。


木造スタジアム案と開催返上

図6
図6 駒沢主競技場設計図 立面図(仮設)
図7
       
図7 芝浦自転車競技場模型
競技場は十月に起工するはずであった。しかしこれには当時の国家予算の三%という八百万円もの大金と一千トンの鉄骨が必要となった。しかし七月七日に盧溝橋事件が勃発し日中戦争に突入、統制がすすむなかで、資材の確保とともに新たな市債発行が可能かどうかがあやしくなる。

 東京市はスタジアムの一部を木造にするべく設計変更を重ね、必要とする鉄材を六百トンにまで切り詰める。しかし見通しは立たない。メインスタジアムの建設なしには、そもそもこの巨大なスポーツイベントの開催は立ちゆかない。また戦争が続く限り選手を派遣できないと公表した英国をはじめ、ボイコットを表明する国がでてくるようになる。結局、返上するしか選択肢はなくなってしまう。

 昭和十三年七月十五日、万国博覧会の中止に続いて東京オリンピック開催の返上が閣議決定する。翌十六日、第二十八回組織委員会の席上で、政府の意向が確認された。その後も工事が継続された戸田のボートコースを例外として、世界最大級とうたわれれたメインスタジアムのほか、各地に建設される予定であった施設群は資材統制の影響を受けてすべて幻となってしまう。駒沢に「総合競技場」を建設するという基本構想も当然、白紙となるわけだが、そのアイデアは昭和三十九年のオリンピックに継承される。


参考文献

  • 寺部頼助『オリムピックを東京へ』市政調査會、一九三四
  • 『オリムピック新商売集』誠文堂新光社、一九三六
  • 『国際建築 オリンピック競技場』第一三巻第一号、国際建築協会、一九三七
  • 岸田日出刀『第十一回オリンピック大會と競技場』丸善、一九三七
  • 永井松三『報告書』第十二回オリンピック東京大會組織委員会、一九三九
  • 中村哲夫『第12回オリンピック東京大会研究序説(T)――その招致から返上まで』三重大学教育学部研究紀要 第三六巻 人文・社会科学、一九八五
  • 中村哲夫『第12回オリンピック東京大会研究序説(U)――その招致から返上まで』三重大学教育学部研究紀要 第四〇巻 人文・社会科学、一九八九
  • 中村哲夫『第12回オリンピック東京大会研究序説(V)――その招致から返上まで』三重大学教育学部研究紀要 第四四巻 人文・社会科学、一九九三
  • 橋本一夫『幻の東京オリンピック』日本放送出版協会、一九九四
  • 古川隆久『皇紀・万博・オリンピック』中公新書、一九九八


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