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短編小説

読み切り短編小説
イン・ザ・ベッドルーム〈後編〉 アンドレ・デビュース
島田絵海 訳
 
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 車は海辺の町をあとにし、水路を渡す高架橋にさしかかった。左に白い波が泡となりくだけ散り、その上に暗い海と満月がかぶさっている。右下には入江に小さな釣り舟がふぞろいに浮き沈みしているのが見える。橋を通りすぎると、海はさびれた別荘にさえぎられて見えなくなった。マットの左手は手袋で蒸れ、汗ばんでいた。閉ざされた闇の中で、彼女は知っているという思いがひたひたと押し寄せてきた。

 夜11時にやってきたウィリスに一杯やろうと誘われ、ベッドルームに財布を取りに行くふりをして、ズボンのポケットに手袋と38口径を忍ばせ、居間に戻ったのだった。指先はひやりとした弾倉の銃底に押しつけられており、手のひらはポケットのふくらみをごまかしていた。おやすみのあいさつをする妻のかわいた目にぶつかった。自分の目に拳銃と、これから向かおうとしている一夜が浮かびあがっているのではないかとすら思われた。だが一方で、彼には目にうつるものをこころから信じられなくっている自分が遠くに見えた。

 ウィリスの妻は睡眠薬を飲み、あと8時間は眠りつづけるはずだった。ウィリスはマットに説明している。用心をかさねるのだと。万事が整ったうえで、ウィリスは氷を出して、ゲームルームで二つのグラスにスコッチソーダをつくった痕跡を残した。朝になれば妻に向かって、店を早く閉めてマットと一杯やっていたと言いのがれることになっていた。

「お宅の息子さん、俺の女房とよろしくやってたんじゃないんすか」
 ストラウトの声のひびきはわずかにおびえがあったが、いささかのひるみも感じられなかった。
 マットは銃口をストラウトの頭に押しつけた。思う以上に強く押しつけたのか、ストラウトの頭が小刻みに震えて前方へ傾ぐのが拳銃に伝わってきた。しばらくして、彼は拳銃を膝のあたりに下ろした。
「黙れ」
 あとには沈黙が深々と残った。 車は西に向かい、春まで閉店するデイリー・クイーン、夏にはにぎわうのに今は閉じた二軒のロブスターレストランを通りすぎ、やがて潮流を渡す短い橋にさしかかった。開いた窓から、橋の下で島に打ち砕ける波の音がエンジン音の向こう側に聞こえた。左手に月の光を反射した潮が沼地へとなだれこんでいる。橋を渡り終え、車はその沼地へと進んでいった。両側に広がる沼地には、雑草がちらほらと長い葉身を伸ばし、その大部分を風にそよぐように大地に横たえている。巨大な暗い岩が他を寄せつけぬかのようにどっしり根をおろし、月明かりに光る浅い水たまりが点在していた。

 沼地を抜け、車が森に入っていこうかというときだった。先週の日曜の午後、家人にはフェンウェイ・パークに行くと言いおいてウィリスとふたりで掘った穴のことが宙空にあざやかに浮かんできた。トランジスタ・ラジオで試合中継を流していたが、樫や楓の落葉が穴を覆うであろうという理由で選んだ小山の柔らかい土を掘り返しはじめてからは、音という音がすべて消滅した。

すでに落葉ははじまっていた。穴が十分な深さに掘れたところで穴を隠し、枯れ枝を土に積み上げておき、それから靴とパンツの汚れを落とし、遠く離れたニューハンプシャー州のレストランまで行ってサンドイッチを食べ、ビールを飲み、テレビで試合の残りをみた。ストラウトの後頭部をながめていると、どうしようもなくフランクの墓が脳裡でふとりだしてくる。墓参りにはあれきり行っていない。だが、冬が来る前には行っておくとしよう。雪の散らつく中、二度目の葬式だ。

 ソファーに座っておそらくはテレビを観る子どもたちに話しかけていたのであろうフランクの姿が目の底によみがえった。自分の若さと強靭さを感じていたであろう息子の内面が手にとるように想像できた。息子はビーチの太陽のぬくもりを肌に残し、恋におちており、メアリ・アンがキッチンで立ちはたらく物音、居間に移動してくる足音を耳にしただろう。おそらくは彼女を見上げただろうし、彼女から声をかけられたかもしれない。

彼女はサンドイッチをのせたトレイごしに彼を見つめ、笑いかけ、贈り物のように料理を差し出すときに女性が言うようなことを口にしたかもしれない。そのとき、玄関のドアが開いてこいつが入ってきやがったのだ。フランクはその手に拳銃が握られているのを目にした。こいつと拳銃。それが、フランクがこの世で最後に見た人間と物体となったのだ。

 車は町へ入り、ほぼがらがらの通りを進んだ。通りには何台かの車がゆっくり走行しており、警官が一人、照明の消えた店先を巡回していた。通りすぎる瞬間、ストラウトとマットは同時にその警官をかすめ見た。メインストリートを走行しているとはいえ、信号はすべて黄色に点滅している。これもウィリスと打ち合わせてあったことだ。

夜中には信号が黄色に変わる。したがってストラウトが車を停めて逃げ出そうなんてチャンスはありえない。ストラウトが住居のある区画へとハンドルを切ると、ウィリスの車のヘッドライトがマットの座る後部座席を照らすこともなくなった。これも打ち合わせ済みだった。ストラウトの家につける車は一台であって然るべきだと。この打ち合わせにおいても、マットはストラウトとふたりきりになった場合のおびえを白状することができなかった。家に入った場合はなおさらだということも。

そのメゾネットの家に。そこは通りに面した家々がすべて闇に包まれ、通りそのものが各ブロックの角を照らしているような区画だった。ストラウトが自宅に車をひき入れたとき、不眠症の誰かが起きているのではないかとの危惧はにわかに現実味を帯びてきた。男か女かわからないが、暗い居間でボストンのオールナイト番組をひとりぼんやりながめていてもふしぎではない。玄関先で車が停まると、マットは「裏に停めろ」と言い、ストラウトの頭を銃口で軽くごついた。

「あのう、それ安全装置をかけたままにしといてもらえませんか。ブレーキもかけられないんで」
 マットは安全装置をはずした。「さっさとやるんだ」
 ストラウトはひと呼吸おいてから車をそろりと前進させた。エンジンをアイドリングよりややふかす程度だった。ガレージに車を寄せると彼は静かにブレーキを踏んだ。マットはドアを開け、手袋を脱いでポケットにねじこんだ。車から出て腰を使ってドアを閉めた。「上出来だ」

 ストラウトは拳銃を確認して車を降り、マットはその後ろから裏戸へつづく芝生を歩いた。戸に鍵がさしこまれた瞬間、マットはなにげなく両サイドの狭い裏庭の列に目をすべらせた。するとそこにはまばらな高木があった。常緑樹もあればそうでないものもあった。赤や黄に紅葉した落葉樹の葉が穴を覆う光景がまぶたの裏側に浮かんできた。まもなく葉は落ちる。たぶん二週間以内には。はらはらと落ち、地表を覆う。

 ストラウトがキッチンに足を踏み入れた。
「電気を点けろ」
 ストラウトは壁のスイッチに手を伸ばした。明かりにさらされ、ストラウトのがっしりした背中と濃いブルーのシャツ、白いベルト、そして赤いパンツが眼前に迫った。
「スーツケースはどこだ」
「スーツケース?」
「どこにある」
「ベッドルームの押し入れですけど」
「そこへ行け。ドアの手前でいったん止まってから電気を点けろ」

 キッチンを通りぬけざま、流し台やレンジや冷蔵庫がマットの目に突き刺さってきた。流しには皿一枚ない。ラックにも皿一枚なく、ガスレンジまわりに油はねひとつなく、冷蔵庫のドアは清潔で汚れひとつなかった。見たくもないのに、どうしてか視界に入るすべてを点検しないではおけない。居間の藤のバスケットにきまりよく収まった新聞や雑誌、吸殻一本ない灰皿、レコードプレイヤー、その隣に並んだレコードの棚、そして、廊下の先、メアリ・アンと子どもたち二人が芝生でくつろぐ(背景に家は映っていない)一枚のカラー写真。ベッドルームの手前だった。

 写真のなかのメアリ・アンは、カメラのレンズかストラウトか、あるいはカメラを持った何者かに向かって笑いかけていた。その笑顔はまさに今年の夏に見たのと同じものであった。彼はバーベキューの準備をととのえながらみんなと談笑し、彼女の小麦色の足や、彼女の腕、肩、髪にそれとなくさわるフランクに目を向けていた。あのときとそっくりの彼女の笑顔とともに廊下を歩きながら、彼はしたたか打ちのめされた気分におちいった。

ということはつまり、遊び歩いていたときにもあのように夫婦して笑い合っていたのだろうか。さも自分たちは幸せだとでもいうかのように。たまにそれがあったとして、いったいそれの何に意味があったというのだ。彼女の目、そこに宿った痛みを思い出そうとしてみるが、それはかつて実際に手で触れられそうな愛にあふれた輪郭があったはずなのにもかかわらず、今はリヴォルヴァーを握るこの手にしか存在はなく、今まさしくその標的であるストラウトが廊下の突き当たりで立ち止まっているばかりだ。

「電気のスイッチは壁についてないんですけど」
「どこにある」
「ベッドの脇で」
「行け」

 マットはぴたりと背後にはりついた。ややためらいがちにストラウトはかがみこんで部屋の明かりを点けた。目に飛びこんできたのはまず、ベッドだった。ダブルで、きちんとととのえられていた。サイドテーブルの灰皿には吸殻一本なく、箪笥には埃のつもった形跡さえなく、写真の一枚も飾っていない。ということはつまり、おそらくは女が訪れたとして(女?誰なのだそれは)、その女はこのベッドルームでメアリ・アンの存在を感じることなく、この空間はふたりだけのためにあると信じこんだのにちがいなかった。

しかしマットは父であり夫であり、離婚したことは一度もないが、このベッドルームが夫婦だけのものではなかったというのは(わかりたくもなかったが)容易に想像できた。不意にストラウトが振り向いた。眼前にその唇、厳つい顎が迫り、ソファーに腰かけたフランクの恐怖に見開かれた目が脳裡をかすめた。

「トロッティーアさんは?」
「待っている。いいから夏服の用意をしろ」
「いったい何だってんですか」
「高飛びするんだよ」
「ファウラーさん……」

 彼は撃鉄を下ろしたリヴォルヴァーをストラウトの顔に突きつけた。銃身が小刻みに震えたが、それは思ったより微細な震えですんだ。ストラウトはクローゼットを開け、下からスーツケースを取り出してベッドの上でそれを開いた。そして、箪笥の方向に移動しながら、こう言った。
「おたくの息子さんは女房を寝取ろうとしていたんですよ。俺はただ子どもを連れにあそこへ行っただけなんだ。息子さん、入り浸っていたみたいですね。うちのせがれどもが教えてくれたんですけどね」

 彼はマットを見ずに喋っていた。ストラウトが一番上の引き出しを開けた瞬間、マットはその手元が見えるようににじり寄った。そこには下着と靴下があった。靴下はきれいにまるめられ、下着類は几帳面にたたんであった。ストラウトはそれらを持ってベッドに戻り、スーツケースに整然と収納していった。そしてクローゼットからシャツやずぼんやジャケットの類を次から次へと出し、ベッドの上に並べていった。バスルームにもマットはついていき、彼がひげそり用具を詰めていくのを戸口で監視した。さらにベッドルームで、一個人がかき集めたものが次々に収まっていくさまを見守った。それらは彼の一部を形成している。だからなのか、店で衣料のみならず余計なものを売っているようなむなしさが全身にしみ広がっていくのは。

「僕は彼女とよりを戻したかったんですよ」ストラウトはスーツケースに身を屈めながら言った。「話し合うこともできなかったな。息子さんがべったりでしたからね。そんなわけで刑務所行きです。服役から戻ったら老人だ。どうです。ご満足でしょう」
「刑務所行きはなしだ」
 ストラウトはスーツケースの蓋を閉め、マットと向き合い、拳銃を見下ろした。マットは背後にまわりこんだ。ストラウトは灯りのついた廊下とマットにはさまれる格好になった。マットはハンカチを使ってランプを消し、言った。
「出発だ」

 廊下を抜けながら、マットはさっきの写真を見ないではおけなかった。居間とキッチンを通り抜けざまに、電気を消した。そして、あろうことか話をしていた。自分が話をしていること、思いもよらぬ嘘をついていることに、彼は戦慄をおぼえなくてはならなかった。
「これは賭けでもあるんだ。我々、女房と俺には、この状態が耐えられない。だからおまえには姿をくらましてもらう。高飛びのための航空券と仕事も用意した。トロッティーアの連れがな、用意したんだ。西の方だ。女房がおまえにでくわしすぎるんでね。これ以上はもう限界なんだ」

 マットはキッチンの電気を切るとハンカチをポケットにねじこみ、二段のブロックを降りて芝生を踏んだ。ストラウトは後部座席の床にスーツケースを収め、運転席に乗りこんだ。マットは後ろに乗りこみ、手袋をしてドアを閉めた。
「捕まるんじゃないですか、そんなの。乗客名簿を調べればすぐですよ」
「おまえの本名は使っていない」
「それだっていずればれますよ。そんな簡単にことが運ぶんなら、とうの昔に自分でやってますって。ちがいますかね」

 車は通りに戻っていった。マットは拳銃の銃身を見下ろしたまま、その先にある横顔から視線をそらしつづけた。
「おまえ一人では無理だったろうな。我々にぬかりはない」
「こんな夜更けに飛ぶ飛行機なんてあるんですかね、ファウラーさん」
「町の方にいったん戻れ。それから125号線を北上しろ」
 車は角にさしかかってカーブした。ウィリスのヘッドライトがふたたびマットと車内を照らし出した。
「北、ですか」
「しばらくおまえをかくまってくれるところがある。飛行場にも連れてってもらえる」彼はリヴォルヴァーの安全装置をかけて膝に下ろし、疲れた声を出した。「もう喋るな」

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