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短編小説

読み切り短編小説
イン・ザ・ベッドルーム〈前編〉 アンドレ・デビュース
島田絵海 訳
 
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 8月の朝、マット・ファウラーは末息子のフランクを埋葬した。享年、21歳8カ月と4日であった。葬儀が終わり、親族一同で墓に背を向け友人たちの列にまぎれ歩いていたときのことだ。長男のスティーヴが振り向いてこう言った。
「あの野郎、ぶっ殺してやる」
 28歳になるスティーヴは、かつて豊かだった茶色い前髪も薄くなりかけている。彼は下唇をかみしめ両目をぬぐい、同じことばをくりかえし言った。

 腕にからまる妻ルースの腕がこわばるのがマットに伝わった。その顔をのぞきこむと、目のまわりがくぼんで三日間の苦悩をきざむくまが浮かび出ている。マットはリムジンに乗りこむ前、振り返って墓地全体をながめわたした。墓と棺が見えた。牧師も見えた。表情にあらわれていなくとも、この追悼演説はさぞやりにくかったことだろう。老いた葬儀の世話役が棺かつぎの若者たちに何ごとかを言っている。墓地はメリマック川を見晴らせる丘の頂にあるが、ここからは死角となって川は見えない。彼は対岸の土手をながめやった。丘に向かって左右対象にのびるりんご畑を。

 翌日、銀行の支店長を務める長男は妻と連れ立ってボルチモアへ車を飛ばし、真ん中の娘キャサリンも夫とともにシラキュースへと発った。彼らは子どもたちを友人宅にあずけてきていた。
 葬儀の一カ月後、マットはウィリス・トロッティーア宅でポーカーに興じた。というのも、ルースが今回は2度目の誘いと知ったうえで、ねえあなた、こうやって二人からだを寄せ合っていたって仕方がないでしょう、あたしなら平気よ、と背中を押してくれたからだった。ゲームの後、ウィリスは表に出て仲間たちにあいさつをした。やがて車が走り去ってしまうと、マットを自分の車へといざなった。ウィリスは第二次世界大戦後にダイナーを開いた背の低い銀髪の男で、かつては主に早朝の食事をつくって出すのを生業にしていたが、のちに皮製品や靴の製造工場で働く男たちにランチを出すようになり、今ではいっぱしのレストラン経営者だった。

「やつが町をうろついてやがるなんてな」とマットは言った。
「ああ、ゆうべは俺の店にいたぜ。バーで女の子と一緒だったよ」
「俺が見たわけじゃないんだ。一日中店にかかりっきりだろう。女房のほうなんだよ。どうもでくわしすぎるんだな。今日もスーパーに煙草とアスピリンを買いにいったら、そこにやつがいたみたいでね。おちおち煙草とアスピリンを買いに出歩けもしないよ。じつはノイローゼ気味でね」
「一杯飲みに戻るか」

 マットは腕時計を見た。ルースは眠っているだろう。ウィリスと肩を並べて引き返す途中、彼は玄関先で歩を休め、星のまたたく夜空を見上げた。風の冷たい夏の夜だった。うつろな気持ちでレッドソックスが今夜どこで試合をしたのかも知らないことを思った。事件が起きてから、以前にはたしかにあったはずのささやかな娯楽さえ、いっこうに浮かんでこない。まして、今となっては永遠に鎖されてしまったものなど思い出せるわけがなかった。ひそやかに儚く、ひそやかに悦びをもたらした父であった日々など。

 ウィリスの妻は何時間も前に寝室へと消えており、広い屋敷の裏手で防犯防災システムが作動していた。地下のゲームルームに降りた。天井から吊られたテレビ、プールテーブル、缶ビールやカードやチップスや吸殻のあふれた灰皿でちらかったポーカーテーブル、さっきまで皆が座っていた6脚の椅子。仲間たちはさながら彼が休暇で不在だったかのようにくだらない冗談をぶつけてきたが、そこにはある一定の距離をおいた思いやりのようなものが感じられた。

 ウィリスはカウンターの裏でスコッチをソーダで割り、そこにとどまったまま、スツールに腰かけたマットをうかがった。
「聞いておくが、そういうことで頭がいっぱいなのかい」
「やつが保釈されてからは毎日だな。まさか保釈を許されるとは思いもよらなかったよ。少なくとも何年か先まではやつのことを考えずにすむと思っていたんだ。だいたい女房がでくわしすぎるんだ。生傷に塩を塗るようなものじゃないか」
「やつはゆうべ俺の店でのさばっていた。そのうちまた来るだろうがな」
「たぶん来ないね」
「バンドだよ。バンドが好きなのさ」
「やつは何をやっているんだ」
「ハンプトン・ビーチでバーを手伝っているらしい。仲間のな。あんな最低の野郎に仲間がいるとは驚きもんだけどよ。町じゃ職にもあぶれるさ。ハンプトンじゃ旅行者かガキどもを相手にしてりゃいい。誰にもばれやしない。ばれたところで誰も気にしない。やつがつくるドリンクを飲むんだ」
「そいつは初耳だな」

「いいかいマット、俺だってやつが憎いよ。俺んちのせがれはあいつと同じ学校へ通っていたんだ。あいかわらずだよ、やつは。これからどうなると思う? せいぜい5年の刑期だぜ。7年前の女の事件を覚えてるか。亭主を撃ち殺してセメント漬けにして橋から川へどぼんだ。で、全部自分ひとりでやりました、だとよ。あの女、今どこにいるか知ってるか。ローレンスだよ。秘書だとさ。共犯者がいたとしてだ、そいつは行方知れずのままだ」
「何年か前に38口径を手に入れたんだ。今は持ち歩いているよ。女房には強盗に備えてだと言ってある。世の中は変わった。このへんもチンピラが増えた。失業中の連中がいっぱいだ。そうは言っても、ばれてはいるがな」
「何が?」
「拳銃を持ち出したのが、女房が町でやつとでくわした直後だということがね。俺がでくわした場合に備えてだということもさ。そこにある状況が発生することも――」

 言葉を切り、彼はウィリスと視線をからませ、一気に酒を飲み干した。ウィリスはお代わりをつくった。
「ある状況?」
「やつが俺に対して何か行動を起こすとか。あるいはその、俺が拳銃を持って姿をくらますとかだな」
「ルースにどこまで勘づかれているんだい」
「べつに勘づいてはいないさ」
「おい、ばれているって言ったぜ。彼女には何もかもお見通しなんだろう」
 彼はその日の午後、妻がどのような心情でいたかに思いをめぐらせた。スーパー「サニーハースト」の入口をくぐるなり、ストラウトが買ったものをレジ係に袋詰めしてもらう光景が目に飛びこんできたのだ。とっさに妻はきびすを返し、ストラウトが出ていくまでスープ缶にじっと焦点をあわせていたのだ。
「女房なら撃ち殺しかねないな。殴り倒すのと大差はないだろう」
「許可は持っているのか」
「いや」
「俺にまかせろ。許可がおりるのに一年はかかるぜ」
「許可をとってもいいんだ。いや、そんなことはしないだろうよ。まあ、あれだな。そのうち持ち歩かないようにするさ」

 リチャード・ストラウトは26歳だった。高校時代にはスポーツ万能でならし、フットボール奨学金をもらってマサチューセッツ大学へ進学したが、二学期もったのがせいぜいといったところで、ほどなく最終学年を目前にして通学を放棄したため退学を余儀なくされた。当時の噂はこうだった。あいつはその気になればできるのに、やる気がないのだ。そのようにしてストラウトは実家に戻って父親の仕事を手伝い大工をはじめたわけだったが、家業を継がないかという父親のオファーは拒んだ。家はしかしすでに上の兄二人が継いでいた。「ストラウト・アンド・サンズ」というロゴ入りのトラックが町を往来し、建築現場には必ずお目見えしている。その光景こそが、今のマット・ファウラーのとがり細った神経をおびやかすきっかけとなったのだった。

 やがてリチャードは若い女と結婚し、バーテンダーの職を得た。給料やチップは増え、おそらくは父親に匹敵することもあったかと思われる。父親とはまずまずうまくいっていたようだし、誰もが彼の顔や名前を知っていた。仲間たちにしろ、敵にしろ。無論、敵がいたのである。殴り合いの喧嘩になることも多かったが、敵対していた連中の誰もが子ども時代から青年時代にかけて、やばいと本気で思うときはストラウトに喧嘩を売ったことなどなかった。一方、ストラウトの顔や名前を見聞きするだけの人たちにしてみれば、殺人の一件を聞き知ったときに思い描いたのは、記憶に浮かびあがる彼への印象の連なりであった。高校生のランニングバック、バーで飲んだくれる若者、カウンターでランチをとる正体不明のヘルメットをかぶった若者、たいしたサービスをしてくれるでもない無愛想なバーテンダー。あるいはバーをきりもりする際の暗澹とした目つき、何を考えているのかわからない、しらふには到底見えない険悪なかげり――。

 ある晩、ストラウトはフランクを殴りつけた。フランクは帰省中で、9月から大学院で経済学を学ぶことになっていた。夏のあいだサルスベリー・ビーチで警備員のアルバイトをしており、そのアルバイト先で、子どもたちを連れてくる日もくる日も浜辺で過ごすメアリ・アン・ストラウトと出会っていたのである。彼女はリチャードと別居して一カ月を経ようとしていた。あの晩、息子が帰宅してきたのはめずらしく夜10時前だった。先に病院へ車をまわしたらしく、右目を縫い、上下の唇を赤くはれ上がらせた姿を居間に現した。

「大丈夫だよ」と息子が口をきくが早いか、夫婦して飛びあがった。マットはテレビのスイッチを切って、ひとまず妻を息子のもとにやらせた。長身でひきしまったからだつきをした息子のもとへ。
 フランクはふたりに向かって笑いかけようとしたが、唇のせいで無駄な試みに終わった。
「あの娘の亭主がやったのね」ルースが言った。
「元、ね」とフランクは言った。「戻ってきたんだ」

 マットはフランクの顎をそっと持ち、顔を左側に向かせ、縫い跡、白目ににじんだ血、青あざに染まった頬などをざっと調べた。
「告訴するか」
「しないよ」
「おまえ、またやられたらどうするつもりだ。おまえが手を出さないともかぎらないんだぞ。これでケリがついたとでも思うのか」
「手を出そうとは思わないよ」
「じゃあどうするつもりなんだ」
「空手をつかうかな」とフランクはへらへら笑おうとした。
「いい加減にしてちょうだい」とルースが言った。

「母さんは彼女のことを好きなんでしょう」
「彼女以外の人だってたくさん好きだわ。子どもたちはどうしていたの。見られていたんじゃないでしょうね」
「寝てたよ」
「彼女を一人置いて帰ってきたの?」
「彼が先に出て行った。どなりちらされてね。彼女、フライパンを振り上げたみたいだったな」
「あー、もう勘弁して」

 マットにしろ、なんとかやりすごしてきたのだ。フランクがメアリ・アン・ストラウトと夕食を共にして不在の夕餉においても。また、そうではない夜にも。どのみちフランクは毎晩彼女と一緒に過ごしていたので、そんな夜は夫婦ふたりでテレビをみながらぽつぽつと途切れがちに会話を交わすか、窓を開け放して寝床に入り、夜気を吸いこみ、誇らしさとも寂寥感ともつかない思いを持て余すかだった。フランクが彼女の腕の中にいる情景をふとらせながら。

 ルースが快く思っていないのは、メアリ・アンがいまだ離婚していないからであり、彼女に子どもが二人いるからであり、息子より4歳も年上だからであり、何より決定的に言えることは――と、妻はベッドルームで告白した。結婚生活を送ってきた長い歳月のあいだに、ベッドルームは妻が根の深いところでくすぶる感情のすべてを吐き出せる唯一の場所となっていた。たとえば息子や娘への慈しみや育児に関する悩み、将来への不安など。あるいは夫に傷つけられたり、逆に夫を傷つけた場合に抱く心情など――妻がかたくなに拒んでいるのは、ある噂を耳にしたからだった。あの二人の結婚は早くから破綻しており、リチャードもメアリ・アンも奔放に遊びまわっていたという。
「そいつはどうかな」とマットは言った。「ストラウトがそんなややこしい関係を好むとは思えんがな」
「彼女に未練があるのよ」
「あれほど頭に血がのぼりやすいやつだ。それはありえん話だろう」

 そんなことばを舌にのせながら、頭のなかではあながちありえない話でもないと考えていた。彼も似たような話を小耳にはさんだことがあったからだ。それにしてもいったい誰が妻にそのような話を吹聴したのであろうかという疑問がのぞくと、そこはかとなく無視されたような疎外されたような気分に襲われる。31年間生活をともにしておきながら、妻が友人たちとどんな会話を交わしてしているのかすら掌握できずにいるのだ。今年の夏はいさかいが起きるというよりはむしろ彼女を慰めようと努めたといった方が正しいが、最終的には夫婦のあいだにわだかまりは残っていなかった。いつも妻には必ずかたくなな異論があって、話はいつのまにかもつれてくる。だからこそ一歩ゆずるという努力をかさねてきたのだ。そのうち自分の異論などどうでもよくなってきた。いずれにしろ妻と同じようなものなのだと。だからだろうか、妻を説き伏せようとしても、その意味もふやけてあいまいになっていくようなのだった。さしずめ店で客が奥さんへのプレゼントにブラウスやドレスや宝石を選ぶのを手伝っているときのように。

「離婚などどうだっていいことだろう。彼女は若いし、せがれのルックスを気に入ったのだろうし、いずれ自分がろくでなしと暮らしていたということに気づくだろう。私はむしろ前向きに考えてもいいことだと思うがね」
「だって、離婚していないのよ」
「だからそれが何なのだ。マサチューセッツの州法がおかしいんだ。彼女の年齢に問題はない。生まれ育ちにも問題はない。他のことにしても、あれが本当だとしても、まあ、ありえんことだろうが、いずれにしろ、フランクには何の関係もないことじゃないか。結婚なんて過去のことだ。子どもたちにしたって問題ではない。結婚して6年も経っているんだぞ。子どもがいたっておかしくはない。フランクもかわいがっているじゃないか。よく面倒をみているよ。それに何もすぐに結婚しようってわけではないのだし、それはまあ経済力の問題というのでもない」

「では、あのふたりはどういう関係なのかしら」
「彼女はフランクを愛しているんだよ、ルース。女性ならごくまっとうなことだろう。そんなことをいちいち詮索していたらきりがないじゃないか」
「あの子、火曜の朝6時に帰ってきたわよ」
「火曜の朝? ああ、あの件ならとっくに話をしておいたよ」
 それが彼のやり方だった。つまり、口に出したことの実体さえつかめず自分で言ったことが信じられなくなっているために、せめて息子に対しては本心をぶつけてみようというきもちが膨れ上がるのだ。その前の晩、彼は夕食後に息子を車まで見送り、話しかけていた。

「あんまりこそ泥みたいな真似をするんじゃないぞ」
「こそ泥?」
 彼は息子を見上げていた。息子は身長183センチで自分より4センチ近く背が高い。息子に17歳で背を追い越されたときには誇らしさで胸がいっぱいになったものだ。身長差に胸がふさぐとすれば叱るか小言をいうときだけであった。息子の腕に触れると、その若さと情熱に漲る引き締まった肉体に思いがめぐり、その欲望を自分も感知できるかのように思われた。すると、ふたたび誇らしさとも寂寥感とも羨望ともつかない感情がどこからともなく湧き起こってくるのだった。羨望の対象が息子なのか、それともメアリ・アンなのかさえおぼつかぬままに。

「おまえが昨日の朝帰ってきたときな、父さんは起きていたんだ。こんなことを続けていると、いずれ母さんにも気づかれるぞ。そうなったら父さんが言って聞かせなきゃならんだろうが。母さんだって余計な口出しをしたくないんだよ。わかるだろう。いやまあ、それはな――」そこで言いよどみ、頭の中で独りごちた。いやまあ、それはな、眠い目をこすって日に焼けたいい女を残して車に乗らなきゃならんのはさぞかし辛かろうが――
「わかったよ」息子はそう言って父の肩を軽く叩き、車に乗った。

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