内容説明
奈良時代、聖武天皇は難波宮・京を再興し、ついで突然に平城京を出ると、恭仁宮・京、紫香楽宮を造営し、五年にわたり、これらの都城を転々とした。今なお謎の多いこの行動を、最新の発掘成果と唐の三都制をもとに読み解く。
目次
複都制の都―プロローグ
難波宮・京の造営
恭仁宮・京への遷都と造営
紫香楽宮と盧舎那仏の造立
甲賀宮の造営と遷都
聖武天皇による都城の造営と三都制
甲賀宮の造営と遷都の背景―エピローグ
著者等紹介
小笠原好彦[オガサワラヨシヒコ]
1941年、青森県に生まれる。1966年、東北大学大学院文学研究科修士課程修了。現在、明治大学特任教授、滋賀大学名誉教授。博士(文学)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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感想・レビュー
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月をみるもの
12
この頃の日本にとっての中国と、いまの日本にとってのアメリカは、ほぼ同じ位置付けなんじゃないかな。。2020/01/20
moonanddai
7
聖武天皇彷徨の5年、3か所というか平城京を入れれば4か所を行ったり来たりしたわけですが、紫香楽宮(甲賀宮)が興味深い。難波京遷都直後に何故紫香楽へ戻ったのか?直木孝次郎氏によると、そこには難波派(諸兄、元正)vs紫香楽派(光明、仲麻呂)の政治対立が考えられると…。さらにそこに大仏建立が絡むことになります。建立の中心人物と言えば、行基ですが、彼の集団の技術力や民衆動員力といったものはやはり大きな政治力になるのではないでしょうか。行基も霊異の人だけでなく、意外に政治的な人物だったのかも(個人的な考えですW)。2021/02/08
うしうし
4
県立図書館本を借り読み。聖武天皇が造営した難波宮・恭仁宮・紫香楽宮は、隋唐の複都制を規範としたとする。大変勉強になったが、前期難波京や土塔・平城京などを説明する際に、参考とすべき図版が1枚も掲載されていないことには閉口する。甲賀宮と大仏造営の関係などは自分自身の不勉強から未消化。複都制についての論説も、これが何故日本の都城制に採用されたのかは十分な説明がなされていないような気もした。歌木簡の研究成果の紹介(p216-226)も興味深かった。2015/02/02
あまたあるほし
4
やはり中国化する日本なわけだ2012/05/02
パパ
3
聖武天皇が恭仁京、紫香楽宮と次々に遷都を繰り返したことはこの時代の大きな謎であり、通説では藤原広嗣の乱から逃れるためより内陸に遷都しようとしたと言われている。しかし、著者によれば、同時代の唐の三都制を模倣したものであるという。さらに、足利健亮により復元された恭仁京の条坊プランから見ると、泉川を挟んで造営された恭仁京は洛水を南北に挟んだ唐洛陽城を模したものと考えられる。同様に、唐長安に難波京、太原に紫香楽が比定される。2012/03/24