【じんぶんや第85講】 村上靖彦選「哲学はいかにして可能か?」
紀伊國屋書店新宿本店3階の月がわりブックフェア「じんぶんや」、今月の選者は村上靖彦さん。「哲学はいかにして可能か?」というテーマで、じんぶんやにエッセイをいただきました。
村上靖彦さんエッセイ「哲学はいかにして可能か?」
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哲学はいかにして可能か?
現象学というのは奇妙な哲学である。日常の出来事を記述しているうちに、いつのまにか異様な風景に変容してしまうホラーのようなものだ。
医療現場で研究するようになってからは、哲学がまだ取り組んだことがない事象が無数にあることにも気がついた。例えば看護師の日常が、何か不可思議な時空間構造を孕んでいるのである。まだ記述されたことがない出来事が無数にあり、しかもそのそれぞれが異様な構造を孕む。例えば、不条理な死を遂げた患者との関係を保証するために、ある看護師は、かつて一度も起きたことがない過去、実現することがない未来を想定しながら実践する。あるいは来世ごっことでも呼べるような非存在の時間を想定する。あるいは、長時間病院に拘束される患者さんにおいて失われる現在の時間を取り戻すために、さまざまな先回りを行う。
ある人に一回だけ起きた出来事や経験から出発して哲学をすることはできないだろうか。個別の出来事から普遍に至ることはできないだろうか。具体物から出発することで未だかつて記述すらされたことがない構造を見つけ出すことができるのではないだろうか。このようなことを今は目論んでいる。あらゆる個別的な経験は固有の運動を持つ。この運動こそが現象であり、運動間のからみ合いの構造を捕まえるとき、現象学が成立する。
看護師のお話を伺いながらもう一つ突き当たったのは、通常の現象学では突き当たることがない、「かつて一度も起きたことがない過去」のような形而上学的な問いに取り組まざるをえないということである。とくに死を身近に感じながら看護する場合には、かつて宗教と呼ばれたものに関わる問いに触れざるをえない。現象学はこうして(一見時代遅れの)形而上学へと越境してゆくことになる。あらかじめ何かの宗教を前提とするのではなく、今回の宗教を失ったところから出発して一からやり直すような形而上学である。
それゆえ選書は狭義の哲学には収まらない。
村上靖彦(むらかみ・やすひこ)さんプロフィール1970年、東京都生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科准教授。基礎精神病理学・精神分析学博士(パリ第7大学)。
レヴィナスを中心とした現象学研究から出発する。小児科での自閉症研究を経て、現在は看護師や助産師たちへの聞き取りなどのフィールドワークを行いながら、様々な「他者との接触」の場面について、テクスト分析と臨床実践の双方からアプローチする新しい哲学を切り拓いている。
著書に、『自閉症の現象学』(勁草書房、2008)、『治癒の現象学』(講談社選書メチエ、2011)、『傷と再生の現象学』(青土社、2011)、『レヴィナス』(河出ブックス、2012)、Lévinas phénoménologue(Millon, 2002)、Hyperbole. Pour une psychopathologie lévinassienne(Association pour lapromotion de la Phénoménologie, 2008)がある。
その哲学の核心は、あらゆる人が出会いうる「傷つきやすさ」にある。
介護・看護といったケアや自閉症研究など、他者との接触の分析に、レヴィナス哲学を取り入れてきた気鋭による、二十一世紀に残るべき思想としてのレヴィナス入門。※Book Web 書誌情報より
村上靖彦さん選書・コメント
・レヴィナス
彼は、このような日常という非日常を記述した現象学者である。レヴィナスの残した書物の異様さの一端は、戦後20年間彼自身語ることができなかったショアーの外傷を語るための言語がそのようなものだったということである。丹念に自らの経験と、受け継いできた教えを伝えようとしたときに「存在するとは別の仕方で」しか成立し得ないような現象へとたどり着いてしまった、その戸惑いの軌跡なのである。
村上靖彦さんコメント
レヴィナスの第1の主著と言われる1961年の作品。「ある」、女性や顔といった概念を軸にヘーゲル『精神現象学』の向こうを張る大伽藍を作り上げる。デカルト、フッサール、ハイデガー、ドイツ観念論、タルムード、ローゼンツヴァイクといったさまざまな文脈の交差点で成立した多面的な書物であり、到底「顔の倫理学」というようなレッテルに収まることはない。
しかしながらレヴィナスは、解釈における新たな意味の産出を思考の根本においた人でもある。「公式見解」からどれだけ遠くへと離れることができるか、という課題こそが読者に課せられた「倫理」である。
・看護、介護、当事者研究
哲学は具体的な経験から思考するべきではないか、これがレヴィナスから学んだことの一つである。それぞれの人の経験の個別性から構造を取り出すと、少なくとも既存の本には書いていないものが見えてくる。ただし、哲学になるためには具体的な事象に触れるだけでなく、構造を取り出さないといけない。
川口の著作は、(進行性のマヒで最終的にはまぶたすらも動かなくなる)ALSに罹患した母親を9年間にわたって自宅介護した記録である。極限的な対人関係と実践の記述は、次の西村の著作と共に、多くの哲学書の抽象的な他者論を遥かに凌駕する射程を持つ。
西村と川口の著書は、私に哲学の「別の道」を教えてくれた書物である。現代において哲学はいかにして可能なのか、その力強い例を示してくれた。
綾屋紗月と熊谷晋一郎による『発達障害当事者研究』の構造上の裏面をなすように思う。
・文学と得体のしれないもの
文学にはもちろんいろいろな切り口があるが、いずれにしても個別を思考する強力な方法である。ここでは私たちが抱えている現実の得体のしれなさをかいま見させる文学のうち、幾つかを挙げる。おそらく哲学もまた、この「得体のしれない現実」へとアプローチするための別の方法なのだ。
村上靖彦さんコメント
ジェイムズの後期の作品に充満する空虚な圧力は、芥川とともにレヴィナス『存在の彼方へ』の末尾における空間論と接続する(ジェイムズの妹は統合失調症だったと言われている)。
彼の代表作『大使たち』は「対人関係」の得体のしれなさを描く。登場人物はお互いのことをよりよく知ろうと詳細に腹の探り合いをすることでかえって、孤独になってゆく。
道に迷った状態がまさに世界との関係の発生であることを明らかにしたのは、今年百歳になる現象学者アンリ・マルディネの『人間と狂気を考える』Maldiney(H.),Penser l'homme et lafolie,J.Millonである。
・精神病理学&心理療法
哲学的人間学の「枠」を広げる一つの方向性は精神病理学と心理療法ではないかと思う。前者は、哲学が前提とする「知能の高い健康な成人男性」の狭小さを教え、後者は人間の質的な変化についての示唆を与えてくれる。いくつかの文学作品をここに含めた。
ウェーベルンのかすかな音の気配と、患者さんたちの発する音との「共鳴」はスリリングである。
近代哲学史のなかの出来事として統合失調症を位置づけるとともに、一貫して臨床の視線に貫かれている。
本書は翻訳に難があるので、英語で読みたい(D.W.Winnicott,Playing and Reality,Routledge)。
ウィニコットの後期には、移行対象とホールディングが破綻する病理に関する議論があり、そこでの彼は人間存在の深淵を覗いている(ウィニコット『精神分析的探求』123(岩崎学術出版社)。
村上靖彦さんコメント
身体と想像力に根ざしたウィニコットやジェンドリンには、暗黙のうちには彼らも実践しているものの理論化できていない要素があるように思える。それは言語の持つ、予想を超えるトリッキーな働きによる治癒的な効果である。
フロイトの『機知』と『日常生活に精神分析』をもとにその部分を照らし出したのがラカンのセミネール第5巻。ウィニコットの遊びにおける創造性の議論と補完しあう。
ミラン・クンデラ 西永良成訳/河出書房新社
村上靖彦さんコメント ラカンが目指した治癒はユーモアを通して具体化する。そのユーモアを不条理と悲しみのなかで描き出したのがチェコからフランスに亡命したクンデラである。本作品も、体制に反発し挫折する浮気者の青年医師を主人公とする社会主義政権下の物語。軽さのなかの深刻さ、重さのなかの軽薄さは、私たちに残された唯一の武器なのではないだろうか。
池見陽の『心のメッセージを聴く』は、フォーカシングの良い入門書。
愛着理論と社会適応に立脚する心理療法に抗う治癒論としてジュネを読みたい。
・哲学
もしかすると現象学は時代遅れの遺物だと思われているのかもしれない。残念である。哲学が現象学のように伝承可能でかつ変容へと開かれた方法を持ったことは、2500年の歴史のなかでも実はほとんどない。そしてまだ現象学には探索されたことがないさまざまな可能性が残されている。
もともとドイツ語で出版された本書は、底の抜ける恐ろしさと厳密な論理とがフッサールにおいて両立するさまを忠実に取り出している。
現象学の練習帳としては『知覚の現象学』の精読が最良のものであり、未完に終わった新しい思考の萌芽である『見えるものと見えないもの』も捨てがたい。しかしどれが好きかと言われると本書に収められた「間接的言語と沈黙の声」である。その後のフランス現象学を導いたテキストである。
村上靖彦さんコメント
本当はフランス語のPhénoménologie en esquiesses(J.Millon)がお薦め。深海へと潜水してゆく現象学。
村上靖彦さんコメント
レヴィナスが決定的な影響を受け、晩年にいたるまで賞賛し続けた書物。そして同時に、レヴィナス思想全体はナチスに加担したハイデガーに対する批判として形成された。
私にとっても、故門脇俊介先生のゼミで教えていただいた『存在と時間』の第1編が哲学研究への手引きとなった。
村上靖彦さんコメント
他の哲学者と対比することで、西欧哲学のなかでのレヴィナスの位置づけははっきりと見えてくる。とくにカントの『実践理性批判』については、彼自身が一貫して大きな評価を与えている。
しかしここでは、レヴィナスが言及することのない『判断力批判』を挙げる。というのは「崇高の分析論」の極限状況のなかでの主体の生成という問いこそ、レヴィナスがカントから受け継ぎ、かつショアーを経ることで変形せざるを得なかった部分だからだ。
問うことをできないものを問うための一つの可能性として、15世紀ドイツの神学者クザーヌスを挙げる。「反対対立の合致」によって万物は包摂される。
・宗教
多くの人が宗教を持たない現代の都市というのは人類史上初の実験である。レヴィナス、精神疾患と心理臨床の興隆、そして死に関わる看護場面の困難、これらのトピックの交点に「宗教の不在」という問題がある。不在を正面から論じた本もあるが、ここでは私たちが何を捨てたのかを振り返る。
パウロが各地の教会に宛てた書簡が、生を肯定する哲学としてのキリスト教の思想的な出発点となった。私自身は宗教を持たないが、宗教とは何だったのかを考えるためにはパウロの呼びかけ、あるいはそれを引き受けたルターがよい手がかりになる。
一神教と対置させるために、供犠にもとづく多神教の理論を置きたい。一神教とは「別の仕方の」意味創造の方法がある。
12世紀に世界の辺境でこのような思考が成立したことは驚きに値する。
念仏を唱えるだけでそして念仏によってのみ救済されるという、法然の抽象的かつ具体的で、しかも極端な思想は、その徹底性において西欧の一神教と対抗しうる。そもそも一神教と多神教という区分に対して再考を迫る。
歌舞伎名作撰 新皿屋舗月雨暈 魚屋宗五郎・茨木
村上靖彦さんコメント 死は金と色恋沙汰と切り離すことができない。江戸文化の精髄を描き出したのが、幕末から明治初期に活躍した歌舞伎の劇作家である河竹黙阿弥である。ラカンが知ったら狂喜したであろうシニフィアンの連鎖と機知の見本でもある。
残念ながら現在販売されているDVDでは金と色恋の泥沼に焦点があたった黙阿弥の世話物は出ていないようだが、代わりに『魚屋宗五郎』を挙げる。殿様の妾として寵愛されたものの不義の嫌疑でお蔦は切り落とされた。真の死因を知った穏和な兄・宗五郎は禁酒を破って号泣する。そして酒の勢いで妹の主人の屋敷に乗り込むのだが......。
現在上演されるのは全体のごく一部だが、それにしても見事なパトスの表現である。このDVDは二代目松緑だが、私自身が観劇した実演では三津五郎による腹の据わった宗五郎が印象に残っている。
「じんぶんや」とは?
こんにちは。じんぶんやです。
2004年9月、紀伊國屋書店新宿本店に「じんぶんや」という棚が生まれました。
「じんぶんや」アイデンティティ1
★ 月 が わ り の 選 者
「じんぶんや」に並ぶ本を選ぶのは、編集者、学者、評論家など、その月のテーマに精通したプロの本読みたちです。「世に溢れかえる書物の山から厳選した本を、お客様にお薦めできるようなコーナーを作ろう」と考えて立ち上げました。数多の本を読み込んだ選者たちのおすすめ本は、掛け値なしに「じんぶんや」推薦印つき。
「じんぶんや」アイデンティティ2
★ 月 が わ り の テ ー マ
人文科学およびその周辺の主題をふらふらと巡っています。ここまでのテーマは、子どもが大きくなったら読ませたい本、身体論、詩、女性学...など。人文科学って日々の生活から縁遠いことではなくて、生きていくのに案外役に立ったりするのです。
ご愛顧のほど、どうぞよろしくお願いします。
「じんぶんや」バックナンバー
こちらのページから今までの「じんぶんや」をご覧いただけます。
【じんぶんや第講】村上靖彦選「哲学はいかにして可能か?」
場 所 紀伊國屋書店新宿本店 3Fカウンター前
会 期 2012年10月31日(水)~12月2日(日)
お問合せ 紀伊國屋書店新宿本店 03-3354-5703
















































