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【ホンのさわりですが 今日の一節】 『月山・鳥海山』より「鴎」 森 敦

孤高の作家、森敦の生誕百年が近づいて来ました(2012年1月22日)。
名作『月山』、大作『われ逝くもののごとく』、深遠な『意味の変容』など、森敦は生と死・聖と俗・虚と実のあわいから独自の奥行きをもつ作品を生み出しました。彼と庄内地方の関係ほど、作家と土地との運命的で深い「縁」を感じさせるものはないでしょう。
この短編「鴎」も庄内平野の海辺の小さな町が舞台。めずらしく夫人をモデルにしたらしい「女房」が登場します。微笑ましさの底に清冽な哀しみを秘めた、珠玉の一篇です。

「堤防へ?」


ぼくもそちらに目を返すと、堤防には波のしぶきが上がって、小さな虹が無数に舞っている。行けばそれなりさらわれてしまいそうなのに、人生をただぼくについてここまで来ただけのような女房が、

「ええ、いまはきっと、満ち潮なのよ。待ってて。わたしが拾って来るから。」

恐れげもなくムギワラ帽を首のうしろに、髪をなびかせながら走って行くのです。ぼくも行こうとすると、ぼくはもう羽風を切って寄って来た鴎の群れの中にあるのです。ぼくは一瞬、ぼくが鴎になったような気がしましたが、不意に女房が「鴎になった!」といった言葉を思いだしました。そして、いまもまた両手をひろげて、波のしぶきの無数の虹の中へと走って行ったのを思いだしました。ハッとして立ち止まると、鴎の群れが羽風を切ってやって来て、ぼくはふたたび鴎の中にあるのです。

「楽しかったわね。わたしたちはたとえどこに行っても、またここに来ましょうね」
「わたしたち? きみが人であることをやめたら、どうしてまた来ることができるのかね」

しかし、鴎の群れは去って、なんの答えもありません。

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「ホンのさわりですが 今日の一節」では、さまざまな本の中から、心に響くフレーズ、魅力的なひとまとまりの文章を抜書でご紹介します。文章そのものが持つ力を、お楽しみください。

(編集部 川島洋)

月山・鳥海山
森敦
文藝春秋 (1979/10 出版)
ISBN:9784167223014
価格:¥610 (税込)

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2012.01.15 注目の本  文学 ロングセラー 東北 ホンのさわりですが

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