【じんぶんや第74講】 岡真理選「アラブ、祈りとしての文学~サバルタン、ポストコロニアル、パレスチナ~」
紀伊國屋書店新宿本店5階の月がわりブックフェア「じんぶんや」、今月の選者は岡真理さんです。今回の選書に関して、岡さんからエッセイをいただきました。
岡真理さんエッセイ
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〈サバルタン〉と呼ばれる者たち。でも、彼女たちは、自分たちが〈サバルタン〉であることを知らない。そして〈サバルタン〉は語ることができない。なぜ? ひとつには、彼女たちは自らを〈サバルタン〉と名指すような〈知〉の外部にいるかぎりにおいて、〈サバルタン〉であるから。彼女たちが自らを〈サバルタン〉として語りえたなら、彼女たちはもはや〈サバルタン〉ではありえない。〈サバルタン〉とは、〈サバルタン〉などという知的言説とは無縁に、サバルタン性を身をもって生きている者たちのことだから。
彼女たちが「語ることができない」のは、彼女たちが語っていないから、ではない。彼女たちは語っている、つねにすでに、彼女たちの言葉で。彼女たちが「語れない」のは、語っていても、聴きとられないから。なぜ、聴きとられないのか。それは彼女たちの言葉を私たちの傲慢な知――それは「無知」の同義語でもある――がとりこぼしてしまうから、はねつけてしまうから、自分たちに都合のよいように別様に解釈してしまうから。だから、サバルタンの声に耳を澄ますために知識人の女は、「学び知ったことを自ら忘れ去らなければならない」(G.C.スピヴァクが『サバルタンは語ることができるか』)。
スピヴァクがこのとき念頭においていたのは、グローバル化された資本主義市場経済システムのもう一方の極において、そのシステムの内部(あるいは外部)で収奪される第三世界の女だった。だが、アラブという中東イスラーム世界に生きる者たちの経験がオリエンタリズムによって収奪されていたように、第三世界の歴史的経験を語る声自体が、ポストコロニアル思想が登場するまで、西洋中心的な知の構造によってサバルタン化されていたと言える。ポストコロニアリズムの登場によって〈サバルタン〉問題が顕在化するのは歴史的必然だった。
とすればアラブの、そしてアラブに限らず第三世界の小説とは、西洋世界によって歴史の外部にうち棄てられ、サバルタン化されてきた者たちの歴史的経験が綴られたものだと言えよう。だが、このとき、幸いなことにもはやサバルタンではなくなった知識人たる作家が、なおサバルタン性のうちにあり続ける同胞たちの経験――そのサバルタン性――を、彼女たちの声をさらに簒奪することなく表象することはいかにして可能なのか。第三世界の小説とはおよそ、この困難な問いに対する実践的応答にほかならない。多くの場合、サバルタンの女によって生きられた経験は、その原理的な表象不可能性を帯びて描かれることになる。おそらくポストコロニアリズムとは、そういった問題に対する感受性の謂いなのだと思う。
岡真理(おか・まり)さんプロフィール1960年、東京生まれ。現代アラブ文学研究者。東京外国語大学アラビア語科でアラビア語を学ぶ。
在学中に、パレスチナ人作家ガッサーン・カナファーニーの作品を読み、「パレスチナ問題」に出会い、以来、パレスチナに関わり続ける。パレスチナ難民をはじめ、種々の構造のなかでサバルタン化される者たちの生きられた経験を描いた文学作品を通して、パレスチナ問題や第三世界の女性たちの問題を現代世界に生きる人間の思想的課題として考察する。著書に『アラブ 祈りとしての文学』(みすず書房、2008年)、『棗椰子の木陰で 第三世界フェミニズムと文学の力』(青土社、2006年)ほか。
近年は学生・市民有志による朗読集団「国境なき朗読者」を主宰、朗読劇「The Message from Gaza ~ガザ 希望のメッセージ~」の脚本、演出を担当、「文学」の力と「肉声」がはらみもつ可能性を実践的に追究。
絶望的な情況におかれた人々の尊厳を想い、非在の贖いとしての共同性を希求する新たな批評の到来。
女性であり、かつ植民地主義の加害者の側に位置することを引き受け、「他者」を一方的に語ることの暴力性を凝視しながら、ことばと名前を奪われた人びとに応答する道をさぐる、大胆にして繊細な文化の政治学。
もし不可能なら、その者の死とともに、その出来事は起こらなかったものとして、歴史の闇に葬られてしまうだろう。
出来事の記憶が、人間の死を越えて生きのびるために、それは語られねばならない。
だが、誰が、どのように語りうるのか。
記憶と物語をめぐるポリティクスを、パフォーマティヴに脱構築する果敢な試み。
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【じんぶんや第74講】岡真理選「アラブ、祈りとしての文学~サバルタン、ポストコロニアル、パレスチナ~」
場 所 紀伊國屋書店新宿本店 5Fカウンター前
会 期 2011年9月28日(水)~10月下旬
お問合せ 紀伊國屋書店新宿本店 03-3354-0131
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岡真理さん選書・コメント
サバルタンの中でも、そのサバルタン性のうちに殺されていった者とは究極のサバルタンである。パキスタンがインドから分離独立することとなったその日、民族浄化が起こる。その出来事を誰がどのように語ることができるのか。ここでは、ペシャーワル地方を、国境をまたいで両国のあいだを往還する列車がその悲劇を証言する。人間の非人間性を目の当たりにして鉄の塊が慟哭する。もはや泣くこともできない死者たちに代わって。
1982年9月16日から18日にかけての3日間、サブラーとシャティーラという二つのパレスチナ難民キャンプで住民2000名以上が虐殺された。難民というサバルタン性を生き、そして殺されていった者たち。遺体の転がるキャンプを4時間にわたり彷徨いながら、ジュネは、死者に代わって語るのではなく、出会った遺体をそのまなざしで優しく愛撫しながら、死者みずからに出来事を語らしめようとする。
ポストコロニアル文学の傑作。フランス統治時代のアルジェリアで生まれ、仏語によるエクリチュールを獲得し、家父長制から解放され、作家となった著者の自伝。だが、自らのその「解放」が、100年前、故郷の洞窟で、アラビア語の叫びをあげながら、フランス占領軍によって焼き殺された無数のアルジェリアの女たちの犠牲の上に獲得されたものであるとき、「私」は、「私」を解放し彼女たちを殺したその言葉で、いかにしてアルジェリア人女性としての自らの生を語ることができるのか。その問いに対する実践的応答として編まれたテクスト。
ファティマ・メルニ−シ−、ラトクリフ川政祥子 / 未来社
1998/07出版
ISBN : 9784624501235
¥2,520 (税込)
北アフリカを代表するフェミニスト社会学者メルニーシーの自伝的フィクション。仮構された幼い少女の視点から、ハーレムで暮らす女たちの生の経験が生き生きと語られる。
メルニーシーが『ハーレムの少女』で描いたように、第三世界出身のフェミニスト知識人が「フェミニズム」を学ぶのは、外国語の本で「フェミニズム」という言葉を知るはるか以前、声を押し殺して泣く母のその声(母語)によってなのだと著者は書く。
「ペシャーワル急行」で、人間の悲劇を語るのが鋼鉄の塊であったように、ここでも、歴史に翻弄されるメキシコの人々の経験を語るのは、人間ではない。
「慰安婦」とされた、おなじくにのオンニ、オンマたち。彼女たちの、その語れない記憶、ことばにできない思いを。まるでお腹のなかの小さな命の息遣いにそっと耳を澄ますように、そのつぶやきに耳を澄まして。
パレスチナ人もまた、歴史によってサバルタン化された存在である。カナファーニーは、その一連の作品において、難民を主人公にしつつ、彼らがサバルタン性を生きる「難民」から、政治的主体性をもった人間へと生成していく姿を描いている。だが、難民が政治的主体性をもって立ち現れるとき、世界は彼らを「テロリスト」と呼び、その声を再び、封殺しようとするだろう。
ドミティ−ラ・バリオス・デ・チュンガラ、モエマ・ヴィ−ゼル / 現代企画室
1984/10出版
ISBN : 9784773884036
¥2,940 (税込)
ティチューバはカリブ出身の黒人奴隷。映画『クルーシブル』(アーサー・ミラー原作、ニコラス・ハイトナー監督、1996年)にも登場する。映画では村人に魔女の嫌疑をかけられ、否定するも虐待され、彼女は意を決し、悪魔に会ったと告白する。ティチューバの言葉に全身で聴き入る村人たち。彼女は言う、「悪魔は、お前を自由にしてやる、故郷の村に帰してやる、綺麗な服を着せてやると約束してくれた」と。
日本統治下の朝鮮で日本人として生まれ、内地に渡り、戦後も苦労して生きて来た在日1世の彼女たち。彼女たちは国を相手に訴訟に踏み切る。無年金訴訟の原告5人の女性たちのハストリーズ。
ア−ディラ・ラ−イディ、イザベル・デ・ラ・クル−ズ / 「シャヒ−ド、100の命」展実行委員会
2003/08出版
ISBN : 9784755480089
¥2,100 (税込)
占領とは一民族全体が別の民族の支配に隷従すること。「難民」的生と同様、占領下でそのサバルタン性のうちに殺されたパレスチナ人100人の命。その「生」の証しを、遺影と、肩身の品の写真が証言する。
1985年から88年にかけて、レバノンのパレスチナ難民キャンプはシリア軍に包囲され、封鎖され、攻撃された。封鎖されたキャンプで住民たちはいかに生き、いかに死んだのか。キャンプで医療活動にあたった英国人医師の記録。彼女がいなければ、彼女が本書で伝えるこれらの声も、これらの命の存在も、私たちに届けられることはなかった。同時に、彼女のような者がいないことで、私たちがその存在すら知ることなく、歴史の闇の中に葬り去られていった者たちのことを思わずにおれない。
ユダヤ人狩りのさなか、隠れた箪笥の中で独り餓死してしまった弟の記憶、誰にも語られなかった弟の死の苦しみ、弟を箪笥に隠し、生き延びてしまった姉の誰にも語りえない罪責の苦しみ。彼らの苦しみに対して罪責を覚え、真相を追うフランス人女性。そこに、語りえぬ深い痛みの記憶があることを、祈りのうちに指し示すために。
『サラの鍵』の主人公が追っていたのが、フランス社会におけるユダヤ人狩りの被害者であったなら、この作品で追われるのは、ユダヤ人狩りの協力者、隠れていたユダヤ人を当局に密告した加害者の方だ。友人の家族をアウシュヴィッツに送った密告者は誰か。だが、そこにもまた、語りえぬ痛みの記憶があった。
作品は、刑務所で文字を習い覚えた主人公が、それによって内的な変容――精神的成熟――を遂げたことを示唆するが、それがいかなるものであったのか、作品に具体的には描かれない。その変容を生きた主人公自身が、自らの言葉でそれを語ることができない以上、彼女の抱える思いはその死によって謎のまま、私たちの前に永遠に宙づりにされる。
『フォー』で声を奪われたのは、ネイティヴのフライデーだったが、ここでは、声を失ったのは、英国からはるばるニュージーランドに嫁いできた主人公である(自ら声を捨て去ったという点でもフライデーと対照的だ)。
Traduir/Trahir(翻訳は裏切り)とはよく言われることだが、アメリカ社会で生きるアジア系移民の生の低みにおいて、裏切りとしての翻訳の深い痛みを描いた作品。
アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ
モフセン・マフマルバフ、武井みゆき / 現代企画室
2001/11出版
ISBN : 9784773801125
¥1,365 (税込)
世界から忘却されたアフガニスタン。旱魃による飢餓で数百万もの人々が餓死にさらされていたとき無関心だった世界は、バーミヤンの石仏がターリバーンに破壊されたとき、その「野蛮さ」を非難した。アフガニスタン空爆からこの10月で10年。10年前、にわかに関心の的となったアフガニスタンは再び忘れ去られ、衆生の終わらない苦しみを前に、仏像は幾度、くずれ落ちなければならないのか。
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「じんぶんや」とは?
こんにちは。じんぶんやです。
2004年9月、紀伊國屋書店新宿本店5階売場に「じんぶんや」という棚が生まれました。
「じんぶんや」アイデンティティ1
★ 月 が わ り の 選 者
「じんぶんや」に並ぶ本を選ぶのは、編集者、学者、評論家など、その月のテーマに精通したプロの本読みたちです。「世に溢れかえる書物の山から厳選した本を、お客様にお薦めできるようなコーナーを作ろう」と考えて立ち上げました。数多の本を読み込んだ選者たちのおすすめ本は、掛け値なしに「じんぶんや」推薦印つき。
「じんぶんや」アイデンティティ2
★ 月 が わ り の テ ー マ
人文科学およびその周辺の主題をふらふらと巡っています。ここまでのテーマは、子どもが大きくなったら読ませたい本、身体論、詩、女性学...など。人文科学って日々の生活から縁遠いことではなくて、生きていくのに案外役に立ったりするのです。
ご愛顧のほど、どうぞよろしくお願いします。
「じんぶんや」バックナンバー
こちらのページから今までの「じんぶんや」をご覧いただけます。











































