【じんぶんや第73講】篠原雅武選「空間のために」
紀伊國屋書店新宿本店5階の月がわりブックフェア「じんぶんや」、今月の選者は篠原雅武さん。5月に発売された著書「空間のために」に関するエッセイをいただきました。
篠原雅武さんエッセイ
今年の五月、『空間のために』という本を上梓しました。この本を書いていたのは2010年でしたが、ゲラとして自宅に届いたのが2011年の3月10日で、まさに見直しをやろうとしたその日、地震の報を耳にしました。およそ一週間ほど集中的に見直していたときも、ウェブ上では日夜、震災と原発事故のニュースが流れていました。被災地から遠いところで暮らしていたからなんとか仕上げることができたものの、近所の雰囲気は沈鬱で、局所的な出来事ではない、列島全域になにかとんでもない影響を及ぼすような画期的事件が起こったのだろうと思いつつ、作業を黙々と進めていたように記憶しています。
この出来事を経たあとは、従来の思想なるものの大半は崩壊するだろうと、私も思いました。ではこの本は、そのショックを持ちこたえるだろうかと自問自答したのでありますが、読み直していて思ったのは、この事態を予期しつつ私は書いていたのではないか、ということです。
主題は空間の荒廃でした。ここ数年、暇があれば日本列島の各地を旅行しました。たとえば北九州や和歌山などです。いわゆる地方都市の駅前、海辺、街中をつぶさに歩いてて感じたのは、どうしようもなく街が死んでいるなあ、ということでした。北九州などは炭坑が廃坑したころからすでにして街は衰退していたのでしょう。かつての工場地帯が更地になり、ショッピングモールやテーマパークが建つ現代的な風景にも、なんともいえぬ荒涼とした雰囲気が漂っています。シャッター通り化した商店街は今やどこでもありふれた光景でしょうが、ひどいところだと、商店街の大半が壊され、更地になっていても、何をも新たに建てようがなく、車が雑然と駐車されています。
都会ではあいもかわらず新品のビルが建設され、オシャレなファッション街もあります。荒廃という現実は、感覚されていないようです。そうした現実を忘れたいがために、オシャレできれいな空間に人は逃げ込んでいるようにも思われます。
そうしたことを何かと目にし、話に聞くことが多々ありました。それで、一冊本を書いてみようと思い立ちました。書いていたときは、空間の荒廃など局所的な現象で、多くの人は「そんなのたいした問題ではない」と思っていたと思われます。実際、知人に話したところでピンと来る人は少数です。
ところが、2011年3月11日は、本当に空間を荒廃させました。津波をくらった多くの場所は、もともと過疎地で、シャッター通り化も起こっていたのではないかと思われます。それに追い討ちをかけられたというのが、実情なのかもしれません。原発が建設されていた町もそうです。原発がないと成り立たない、地場産業のない町というのは、ものすごく脆弱な町です。そのかぎりでは、震災は、もとからあった荒廃状態を一挙に表面化させただけなのかもしれません。思うに、この本で捉えた空間の論理は、このたびの震災によって、よりよく理解可能なものになったといえるとすら、私は考えています。
今後は、漠然とですが、人間の条件ということについて考えてみたいと思います。それを欠くなら人間らしい生活が不可能になってしまう、そのようなものは何か、ということです。震災が破綻させたもの、原発事故の結果、日々飛散している放射性物質が蝕んでいるもの、そうしたものは、おそらく、震災の前からすでにして壊れつつあったのではないかと思います。要するに、人間的なものとしかいいようのない何かが、揺るがされつつある。それが何であるかを問い詰めないといけない時期に来ていると思います。
だから今回のフェアでは、著書を書いたとき参考にした本だけでなく、人間の条件、人間的なものをめぐる考察をすすめていくうえで参考になりそうな本も選んでおきました。
篠原雅武(しのはら・まさたけ)さんプロフィール1975年生。都市論・政治理論。1999年京都大学総合人間学部卒業。2004年京都大学大学院人間・環境学研究科博士課程単位認定退学。京都 大学博士(人間・環境学)。現在、大学非常勤講師。
著書に、『公共空間の政治理論』(人文書院,2007年)、『空間のために』(以文社、2011年)。
訳書に、C・ムフ『政治的なものについて:闘技的民主主義と多元主義的グローバル秩序の構築』(明石書店、2008年、酒井隆史監訳)、M・デイヴィス『スラムの惑星:都市貧困のグローバル化』(明石書店、2010年、丸山里美との共訳、酒井隆史監訳)、J・ホロウェイ『革命:資本主義に 亀裂を入れる』(河出書房新社、2011年、高祖岩三郎との共訳)。
篠原雅武さん選書・コメント
「生なままでほうり出されている実感が、受け取る側に、構築されたものとして、たしかな手ごたえを与える」とき純粋な詩の世界が現われると小野はいう。生なものと、構築されたもの、この違いへの感覚は、空間について考えるうえでも重要だと思う。
だからといって構築性は、厳格であるということを意味しない。緩やかな構築性が、都市の断片をつないでいる。中平の写真をみていると、そうしたことに気づかされる(それだけではないと思いますが)。
写真を撮るということが、じつは世界との向き合いかたへの問いと深くかかわるということを、この本から学んだ。「街路」というエッセーを私は何度も読んだが、まさに写真を撮ることに命をかけた人だからこそ書けるものだと思う。ジョン・バージャーのAnother Way of Tellingも面白い。
後の『全体主義の時代経験』につづく、藤田の「高度成長批判」。彼は高度成長をイデオロギーによって批判するのではなく、生活経験から批判した。とりわけ、街の新品化という視点が重要である。高度成長期に進んだのは、都市のあり方が、人間の経験(ものと人間との相互作用)から遊離したものへと変貌を遂げたことであると藤田はいうが、ではいったい、高度成長期以後、都市のあり方はどうなったか。
マサオミヨシ氏は、そもそも英文学者である。それがどういうわけか、晩年には、エコロジー論の研究に没頭していた。ガタリのエコロジー論の重要性を見抜き、そこでいわれたことを真剣に受けとめ、地球環境問題を考えるための手がかりにしようとしていた。彼は環境学こそがこれからの人類の最重要課題となるといって亡くなったのだが、その見解は、311を経た今となってみると、なんとも意味深長であった。
芥川賞受賞の次の年から、『朝日ジャーナル』に連載された。紀伊半島を半年かけて廻ったことの記録。日本列島がけっして均一ではなく、差別にみちた空間であるということが丹念に描き出されていく。観光地化とともに、そうした空間の差別性が隠蔽されていくことへの危機感が、時折感じられる。それがのちの『讃歌』のような小説につながったのだろう。
平岡は、みなとみらいの再開発には目もくれず、ひたすらに野毛を愛した。日の出町の脇にシャンソンクラブがあり、元次郎というシャンソン歌手がいたという話、野毛大道芸の話などが語られている。横浜という一見するとオシャレな街が、なんともインチキくさい雰囲気に充たされていたということを思い出させてくれる。
阪神大震災、911というように、私たちは都市の崩壊という事件に遭遇したが、松山によれば、こうした崩壊を経てもなお、超高層ビルに象徴される建築は建てられつづけている。311後、どうなるかはまだわからないが、すくなくとも、彼がいう「住むことへの問い」を真剣におこなうきっかけにすべきではないか。
グローバルな資本主義化の裏面で、世界では、スラム化が進行していたことを暴露した本。私自身、訳していて、こんなことは世界のごく一部分に限った話だろうと最初は高を括っていたが、訳す過程で、スラム化はじつはグローバルな話であり、それゆえに日本ももしかしたら無縁ではないのかもしれぬと思い始めた。スラムは経済成長によって消去できるといった楽観的な展望を持つ人にしてみれば、あまり読みたくない本かもしれない。
ジャングルのなかにたつロッジに宿泊した経験から語られる建築論。近代的な建築様式にたいする批判であるが、古き良きものを単に肯定するというのではない。物理的な環境という意味での「あり方」と、それを使用し運営する「やり方」の独特の響き合いに配慮した、固定的でない建築を考えるためのヒント。
寺山の市街劇という発想は、そのまま都市のあり方を考えるためのものといえる。市街劇自体がはたして演劇としてどういう価値をもつものであるかはよくわからないが、すくなくとも、それをつうじて都市的なものの実相が浮き彫りになるのではないか。彼のいう劇場論も単なる演劇論にとどまらず都市空間論になっている、と思う。
本を書く前、この人の映画を三本見た。「マルメロの陽光」は、大都市のなかにある静かな家の中庭で画家が絵を描くのをひたすら映しつづけるという映画だったが、そこに感じたエリセの空間感覚の鋭さに、びっくりした。大都市の風景と、中庭の静寂のコントラスト。静寂のなか、絵が描かれるうちに、庭がしだいに息づいていく様子など。エリセの談話は、空間の質感とでもいうべきものがあることを、語っている。
空間を考えることは、ドキュメンタリー映画について考えることと切り離せない。ドキュメンタリーは、映像で捉えられた事実の断片の集積であり、その事実の意味の再構成であるかぎり一種の虚構=フィクションであると佐藤はいう。虚構の中のリアリティ=現実感が、当の現実に対する批判になるということだが、このような虚構化の手法は、空間をつくるということを考えるうえで、非常に示唆的ではないか。
911のショックを主題とする小説。個人的には『ボディ・アーティスト』を選びたかったのだが、品切れということなのでこちらを選んだ。余計な心理描写を排し、ふるまいと、会話と、音や動きがいかにして空間を充たしているかを淡々と描くだけのスタイルである。この本に出てくる人たちは、911のあとのアメリカにあって、みなが時代から取り残され、見放されていくことを薄々感じているようだ。
コーエン兄弟の映画『ノーカントリー』の原作。解説にもあるように、この小説は「心の闇」などではなく、「世界の闇」、「外の闇」を捉えたものとして、読むことができるだろう。作中に何度かでてくる、着実に変わりつつある世界についていけず疎外感を感じる保安官のぼやきが痛々しい。
『コカイン・ナイト』『スーパー・カンヌ』につづくジャンクスペース小説。「ショッピングセンター、シネマコンプレックス、ホームセンター。二〇世紀のくだらない産物すべて。人々が消費社会とよぶ嘔吐物」。悪しき退屈が支配した世界の総体的な破壊をもくろむ中産階級テロリストの無意味な暴力が、この小説の主題である。
ラブミー農場をはじめたことをめぐるエッセーでは、農業などしたこともなく、生粋の都会人である深沢が、超適当な感じでプレハブを建て、農をつうじて自然的なもの、村的なものに接触するが、結局はどことなくなじめないようすが語られる。会合に呼ばれていってみたら村人たちがいっせいにリズムをとって手をたたき出したときの居心地の悪さを語ったところがとくにおもしろい。
殺人現場に漂う、寒々しさ、荒涼感を捉えた作品。文章と写真からなる。殺人現場と聞くと、例外的な場所だと私たちは思いがちだが、この本に収録された写真を眺めていると、このような荒涼とした場所は、じつは私たちにとって、すでに馴染みの風景になっているようにも思われてくる。日本列島においては、潜在的な殺人現場が広まっているということになろうか。
事件のあった住宅は、過疎化に悩んだ自治体が、若者の定着を図って、畑地を造成して区画した町営住宅地であった。そうした住宅地の空間性が直接にこうした事件の要因であったということはもちろんできないだろうが、まったく関係なかったと断言することもできないように思う。事件後の裁判だけでなく、その後の町の様子の変化がときおり書かれており、興味深い本。
福島第一原発の事故のおよそ一年前に刊行された本。冒頭の柏崎市は、まさに原発の立地する町だが、そこが無関心の蔓延する町であることを捉えた記述は、311があろうとなかろうと、日本列島には、すでに崩壊状況が蔓延していたことを捉えていたといえよう。秋田の児童殺害事件についても、そこの空間性に着目した記述がおこなわれている。
衰退した温泉街を舞台とする、さまざまな人間模様が描かれている。第一話は、温泉街の衰退を克服しようと子供たちが知恵をしぼって奮闘する話。『団地ともお』の作者である。団地と衰退していく地方の温泉街を同時に連載しているというのは、偶然ではないと思う。
江戸の貧民街ではじまった門付け芸が、芝居ばなし、物語芸能となり、浪花節へと発展する。こうした声の芸能は、芸人の巡業、旅回りによって全国に伝播し、日本人なら誰でも知っているという物語の共有を、感性的なレベルで浸透させていく。こうした感性的な働きかけが、ヒラキ(広場、盛り場)という興行場で行なわれた。こういった感性的なレベルを度外視したために日本の社会主義運動が行き詰まったという見解も興味深い。
革新自治体であった横浜市による新貨物線敷設計画に対し、「貨物線が近くを通ったらうるさい」という理由で立ち上がり、反対運動を起こした。そのとりまとめ役の一人であった宮崎省吾は、この運動の過程で、「闘争」「独占資本」といったいわゆる左翼用語を用いることのない運動の理念(「地域エゴイズム」)を見出す。原発事故の余波を生きる私たちは、まずはこの本を読み直す必要があるのではないか。
ジェイコブズの『アメリカ大都市の死と生』は、近代主義的な都市計画にたいする批判の古典とされるが、それがどういう闘争のもとで書かれたかは、じつはあまりよく知られていなかったように思う。ジェイコブズによる計画批判がなんらかのイデオロギー(近代主義批判など)に立脚するというのではなく、あくまでも生活者の立場から、それも、公園で遊ぶ子供といった立場から行なわれたということがよくわかる。
未來社の編集者の回想録。花田清輝、丸山眞男、上野英信といった著者たちとの交流の様子が語られている。一冊の本が書かれるとは、たんに著者一人の作業ではない。そこで重要な役割を果たすのが編集者である。『空間のために』も、そういった共同作業の産物であった。
国立市という、地方から移住してきた核家族が多かった都市では、専業主婦ならば、往々にして家庭内に閉じ込められてしまう。子供としか接することができず、外部世界との接点が希薄になってしまいかねない女性が増大するだろう。著者の伊藤雅子は、国立市の公民館の職員だったが、こういった問題関心から、母親が子供から離れ、共同で学習会のできる機会をつくるべく、公民館内で共同保育の実践を試みる。
原っぱというのはドラえもんの土管がおいてある空き地のこと、遊園地とはジェットコースターなんかがあるいわゆる遊園地のことである。阪神大震災について書かれた文章で青木は「問題は物理的環境さえ安全に整備すればよいという技術的次元ではないように思えてくる」と述べているが、原っぱ的な空間にたいする配慮の有無という問題は、依然として、問われることになるだろう。
地方の衰退の要因を徹底的に問い詰めた本。著者の実体験と、独自の統計調査を踏まえつつ、地方が衰退するとはどういうことか、何ゆえに衰退しているのかを、的確に把握している。荒廃を直視せよという著者の主張を、私たちはしっかりと受けとめなくてはならない。今後の日本社会について考えるための必読書。
グローバリゼーション、ウェブ、スラムが、これからの都市的なものの条件となるだろう。一方で、私たちはヴァーチャルなネットワークなしでは生きていくことができなくなりつつある反面、スラム化という、地球規模での変容を経験しつつある。こうした状況下での生活がどういうものかを考えていくうえで、ヴィリリオの断章風の考察は、ものすごく示唆的である。
これから考えてみたい課題の一つが、人間の条件である。人間らしい生活の条件とはどういうものかという、答えなどあるのかわからない課題だ。二〇〇六年から二〇〇七年にかけて書かれたという伊藤の小説は、すでにして人間の条件の崩壊という課題を捉えていたし、それがはたして人間に耐えられる状況なのかという真摯な問いを抱え込んでいたように思う。
人類が、永遠の命を手にいれたネオ・ヒューマンへと生まれ変わったあとの時代を描き出す小説。ネオ・ヒューマンのあいだには物理的な接触はなく、喜びも、恐れも、快楽も失われている。社会性は失われ、個への砂状化は徹底化している。彼らが住まう壁付き居住地の向こうには、野人が暮らしている。人間らしさの痕跡をとどめる野人は日々殺戮されている...。
およそ五年前に書いていた博士論文をもとにした著書。当時はまだ空間の均質化が切実な問題として感じられていた。それにたいする空間の差異化という展望を提示したのだったが、はたしていまだにそれが有効であるかを問い詰めた結果、今回の『空間のために』が書かれたといえる。そのかぎりでは、連続性があるのかもしれない。
宇沢弘文氏の社会的共通資本の概念に、自分自身、影響されていると思う。空間の荒廃という問題も、社会的共通資本の荒廃として考え直すことができるかもしれない。それは私有化による荒廃というだけでなく、私有化すらされることなく見捨てられたことによる荒廃だが、そうした方向で、今後はものを考えていく必要もあるのだろう。
柄谷氏が若いとき、たぶんものすごく悩んで悩んで書いていたときのエッセイを収録したもの。冒頭の「マクベス論」は、まさしく人間的なものを問い詰めようとした論考だと思うが、「人間的なもの」という、柳田国男の「山の人生」におさめられたエッセイを主題とする論考は、それを欠くなら人間的な生活が難しくなるものが何であるかを示唆してくれる。
一九五〇年代、東京の下丸子地区で展開されたサークル運動の現代的意義を再考したもの。この特集自体、有志の研究会の積み重ねの成果であるということで、座談会も非常に濃密である。「集団」「民衆」「文化」といった概念を、これから考え直していくうえでヒントになる。生活世界を今後どうやってつくりだすかを考えるとき、おそらくは、このあたりからやり直さなくてはならないのではないか。
70年代のウーマンリブ運動の記録。ウーマンリブ運動が、じつは共同保育の空間をつくりあげていく実践であったことを丹念に記録している。子育ての共有化は、子どもを含み持つ共同性の場をつくりだすことだった。ちょうど私が産まれたころの実践であるが、子育てはいつであろうと過酷である。それをこれからやっていかねばならない今の若者も、みずからの子育て観を見直すためにも読んでおくべき一冊だと思う。
この本は、植民地主義にかんする筆者の長年の考察を濃縮した本である。とりわけ、植民地主義論の観点から、世界都市の考察を進める必要があるという見解は、私には示唆的だった。おそらく、ここでいわれている「国内植民地」という観点は、原発事故により顕在化した、地方の問題を捉えるためにも重要なものとなるだろう。
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「じんぶんや」とは?
こんにちは。じんぶんやです。
2004年9月、紀伊國屋書店新宿本店5階売場に「じんぶんや」という棚が生まれました。
「じんぶんや」アイデンティティ1
★ 月 が わ り の 選 者
「じんぶんや」に並ぶ本を選ぶのは、編集者、学者、評論家など、その月のテーマに精通したプロの本読みたちです。「世に溢れかえる書物の山から厳選した本を、お客様にお薦めできるようなコーナーを作ろう」と考えて立ち上げました。数多の本を読み込んだ選者たちのおすすめ本は、掛け値なしに「じんぶんや」推薦印つき。
「じんぶんや」アイデンティティ2
★ 月 が わ り の テ ー マ
人文科学およびその周辺の主題をふらふらと巡っています。ここまでのテーマは、子どもが大きくなったら読ませたい本、身体論、詩、女性学...など。人文科学って日々の生活から縁遠いことではなくて、生きていくのに案外役に立ったりするのです。
ご愛顧のほど、どうぞよろしくお願いします。
「じんぶんや」バックナンバー
こちらのページから今までの「じんぶんや」をご覧いただけます。
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【じんぶんや第73講】篠原雅武選「空間のために」
場 所 紀伊國屋書店新宿本店 5Fカウンター前
会 期 2011年8月13日(土)~9月上旬 *9月26日(月)まで会期延長!
お問合せ 紀伊國屋書店新宿本店 03-3354-0131









































