【じんぶんや第68講】 國分功一郎選「スピノザに近づいてみる――「倫理」と「思考」のための60冊+α」
國分功一郎さんエッセイ「スピノザに近づいてみる――「倫理」と「思考」のための60冊+α」
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ハイデッガーという大哲学者がこんなことを言っています――どんなに幅広く哲学を論じたとしても、〈問う〉ということによって私たちが感動させられていなければ、何も理解したことにはならないし、すべては誤解にとどまる(『形而上学の根本諸概念』)。
ハイデッガーは二〇世紀の哲学を決定づけた、博覧強記の哲学者です。彼の本を読むと、「彼以上に難しいことを考えるのは無理ではないか」と思われるほどです。しかし、そんなハイデッガーも感動しているのです。哲学者の本を読み、問い、書く、そんななかで彼も感動しているのです。
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今回、私は『スピノザの方法』(みすず書房)という本を出版することができました。その中で問うているのは次のようなことです。ものを考えるにあたりわれわれは暗闇のなかをひとり手探りで進まなければならないのか? それともその暗闇のなかには道案内がいるのか? また道案内は可能か?
道案内がいなければ我々はどうしてよいのか分かりません。しかし、道案内に従うだけなら、言われた通りにしているだけですから、ものを考えていることにはなりません。ではどうすればよいのでしょうか? スピノザはこの単純にして困難な問いに明確な答えを出しました。そしてその答えは、彼が『倫理学(エチカ)』の中で問うた、「いかに生きるべきか?」という問いにつながっていきます。
私もまたこの問いについて考える中で何度も感動し、そしてその答えを見つけ出したときに大いに感動しました。今回、紀伊國屋書店「じんぶんや」にて私が選んだ本のフェアを行っていただけることとなりましたが、本を選ぶにあたって何よりも大切にしたのは、感動を与えてくれる本を選ぶということです。
「感動」という言葉は手垢にまみれています。それは「涙を流してすっきりする」という意味ではありません。ハイデッガーの先の言葉は、「感動させるergreifen」と「理解するbegreifen」をかけた言葉遊びになっていますが、この言葉遊びでハイデッガーが言いたかったのは、感動するというのは心をつかまれることであり、心をつかまれることによって初めて人は何かを理解するということです。ですから、ここに言う感動とは何かを理解する喜びに近いかもしれません。
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スピノザの哲学は、先に私が掲げた「暗闇のなかには道案内はいるのか?」という問いに貫かれています。この問いはありふれたものですが、スピノザのような答えをだした人は稀です。今回のフェアでは、このスピノザの答えに関わる本を、様々な角度から選び出しています。読者のみなさんはこれらの本を通じてスピノザの近くに行ってみることができるはずです。もちろん、スピノザ主義者になる必要などありません。ただちょっとスピノザの近くに行ってみるのは悪くない。スピノザの近くに行ってみてどうも性に合わないと思ったなら、また別の方に行ってみればよいのです。このブックリストにはそのための道しるべも記してあります。
読書によって得られる感動のすばらしさとは、或る感動が別の感動を可能にすることです。私はスピノザについて勉強するなかで、「「諸根拠」の中の公理六が、『デカルトの哲学原理』では公理四として公理群の冒頭におかれている!」などということに感動できるようになりました(詳しくは『スピノザの方法』第四章をご覧ください)。この中のどれかに感動することができれば、感動はもっと広がっていきます。感動はすばらしいものです。みなさん、いろんなものに近づいてみましょう!
國分功一郎(こくぶん・こういちろう)さんプロフィール
1974年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。高崎経済大学経済学部講師。哲学。
訳・解説書に、デリダ『マルクスと息子たち』(岩波書店2004)、ドゥルーズ『カントの批判哲学』(ちくま学芸文庫2008)。共訳として、デリダ『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉』(全2巻、岩波書店2006)、フーコー『フーコー・コレクション4』(ちくま学芸文庫2006)、ガタリ『アンチ・オイディプス草稿』(みすず書房2010)。朝日出版社より二冊目の著書を、また『思想』にてドゥルーズ論連載を準備中。
國分功一郎 みすず書房
「〈われわれが崇高な諸問題の思索に際して安全かつ倦怠なしに進みうるような方法が存在するのかどうか、あるいは存在しうるのかどうか。それとも、われわれの精神もわれわれの身体と同様に偶然に従属し、またわれわれの思想は技術によって支配されるよりも偶然によって支配されることが多いのかどうか〉。バウメーステルが尋ねているのは噛み砕いて言えば次のようなことだ。ものを考えるにあたりわれわれは暗闇のなかをひとり手探りで進まなければならないのか。それともその暗闇のなかには道案内がいるのか。また道案内は可能か。
スピノザは、まさにこの素朴な問いについて考えをめぐらせていた。彼は最終的に『倫理学』という書物を完成する。〈倫理学〉とは平たく言えばいかに生きるべきかについて考える学問であるから、彼は彼なりにこの問いへの答えを見つけ出したのである。われわれの目的はこの答えを解明することである。だからわれわれは、バウメーステルと同じ問いをふたたびスピノザ哲学に投げかける。そしてスピノザが残した著作にその問いへの答えを探す」
有限な知性はいかにして十全な観念を形成しうるのか。『知性改善論』『デカルトの哲学原理』から『エチカ』冒頭部までを徹底的に精読、スピノザの思考の筋道を内在的に押し広げ、その論理展開と問題意識とをスリリングに解き明かす。気鋭の哲学者による「平行論」の新たな地平、類書なきスピノザ基礎論!
國分功一郎さん選書リスト
ベルクソンはこんなことを言っています。哲学者の書物を何度も読み、その思想に慣れ親しんでいくと、何か単純なもの、あまりに単純で哲学者自身が言い当てられなかった何かに出会う、と(『哲学的直観』)。哲学者の書物は難解で抽象的な概念に覆われています。しかし、それはこの単純なものを表現するための手段であり、それに到達するためにこそ哲学者は抽象的な概念を駆使してものを書き続けるのです。この単純なもののことをベルクソンは「直観」と呼んでいます。
では、この直観はいかなるものでしょうか? ベルクソンはこう言います。哲学者本人でも表現しきれなかったこの直観をわれわれ読者が表現できるはずがない。しかし、私たちにも捉えることができるものがある。それはこの直観と抽象概念との間にあるイメージである......。後にジル・ドゥルーズはこのイメージを「思考のイメージ」と呼び、いかなる哲学的理論もなんらかのイメージを前提にしていると論じることになります(『差異と反復』)。
私は哲学の本を読むときに大切なのは、その哲学者の「思考のイメージ」を捉えることだと思っています。さまざまな哲学的概念の定義を暗記していくのも大切ですが、このイメージに出会うことができなければ、その哲学者を理解したとは言えないでしょう。簡単に言えば、「この哲学はこんな感じの哲学だ」というイメージをつかむということです。『スピノザの方法』を書くにあたっても、スピノザの「思考のイメージ」をつかむことが大きな課題でした。それにはなかなか難儀しましたが、私はひとつのヒントを手に入れました。それはスピノザに大きな影響を与え、またスピノザが乗り越えようとしたデカルトの哲学と比較してみるということです。この作業を進めるなかで、それこそ私はある「直観」を得ました。それが、説得を求める哲学と説得を求めない哲学という区別です。
デカルトは説得を求める哲学を構想しました。彼の言うコギトの真理とは、どんな懐疑論者であっても説得してしまう「一撃必殺の真理」です。彼はそんな説得の要請を念頭に置きながら壮大な哲学体系を難解な概念を駆使して構築していきました。それに対しスピノザは、説得の要請こそがデカルトの哲学を歪めてしまっていると考え、説得を求めない哲学を構想したのです。
スピノザの『知性改善論』に現れているのは、説得の要請から限りなく遠いところにある真理観です。そして、同じくスピノザの『デカルトの哲学原理』に現れているのは、なんとかして説得の要請からデカルト哲学を引き剥がそうとする読解態度です。私の本はこのふたつの柱を立てたうえで、『エチカ』を読むための基礎論をつくりあげようとしています。
スピノザの名前はよく知られていますが、『エチカ』の幾何学的様式による叙述は、スピノザに関心をもった多くの読者をなかなか寄せ付けないところがあるようです。『スピノザの方法』はスピノザが要するに何をやろうとしているのかを明らかにしていますので、読者のみなさんがスピノザ哲学に親しむにあたっての一助になるはずです。スピノザに関心はあるけれど......という読者の方々にぜひとも本書を手にとっていただきたいと思っています。(國分功一郎)
※みすず書房HPより
http://www.msz.co.jp/news/topics/07579.html
國分功一郎さんコメント
言わずと知れたスピノザの主著。はっきり言って、冒頭から読み始めたために脱落するひとが多い! 確かに「自己原因とは、その本質が存在を含むもの云々」なんて始まってたら、なかなか読み進められません。ですので、まずは第四部から、特に第四部の序言を熟読するところから始めるのをお勧めします。第一部の冒頭については、『スピノザの方法』を読めば、なぜあのような話から始まっているのか、実際にどのように議論が進んでいるのかが分かるはずです。また、パラパラめくりながら、気に入ったことばを拾い上げていくのもいいでしょう。どんな言葉にも「どこどこの定理を参照」と書いてあるわけですから、遡って読んでいけばよいのです。そうするとだんだん自分の気になっている筋がどこにあるのかが分かります。
私の『スピノザの方法』の売りの一つは何と言っても『デカルトの哲学原理』を詳細に読解したことです。この本はなぜか全然研究されていないんですね。しかし、大哲学者デカルトが書き残した一番有名な定式について、「あのコギトの定式は不十分だから、書き換えるよ」などと平気で口にするスピノザはなんと大胆なことでしょうか! そしてそんな大胆な試みを研究しないなんて、なんともったいない! そのまま読み進めるだけでもおもしろいと思いますが、是非『スピノザの方法』の第二部とあわせてお読みください。スピノザがいったいどれほど大胆なことをしているのかが分かるはずです。
私が『スピノザの方法』を書く直接のきっかけになった本です。謎だらけの本です。方法について論じると言っていますが、「方法とは、反省的認識あるいは観念の観念以外の何ものでもない」(p.34)などといきなり言われても...。何をどうしたらいいのか全然分かりません。ここから私の勉強と思索が始まりました。
読んでみると分かるのですが、スピノザは本書の冒頭で「よし絶対善を探求するぞ!」と決断したにも関わらず、二度も断念してしまうのです。三日坊主というか、精神力が弱いというか。スピノザはこう言っています。名誉欲や所有欲や性欲によって得られる幸福は取得こそ確実だけれども、その本性は確実ではない。それはよく分かった。しかし、「以上のことを精神でははなはだ明瞭に知覚しながらも、私はしかし、だからといって所有欲、性欲、名誉欲から全く抜け出るというわけにはゆかなかった」......(p.16)。スピノザの人間らしさがよくわかる箇所です。とはいえスピノザはここから重要な教訓を得ます。それが何かはこの本を読んでお確かめください。
國分功一郎さんコメント
私がまだ十分に勉強していない本です。ですが、いつか必ず『神学政治論』について文章を書きたいと思っています。この本は近代的な聖書読解の最初の試みです。スピノザはヘブライ語の知識、哲学の知識を活かしながら、聖書をどう読むべきか、どうやって神学には神学の領域を、哲学には哲学の領域を確保すべきかを論じています。スピノザには『ヘブライ語文法提要』という著作があります(未邦訳)。これはヘブライ語について書かれた歴史上初めての文法書だそうです。私にはまだ歯が立ちません。しかし、こうした書物も将来的にはあわせて読まれる必要があるでしょう(こう考えると、17世紀の哲学者だといっても、やるべきことがたくさんあるのです!)。また、政治論としては一種のイデオロギー批判の最初の試みであると言えるでしょう。民衆はなぜ迷信を信じ、そして権力に付き従うのか? なぜ民衆は、あたかも自分たちが救われるためででもあるかのように、みずから進んで従属するために戦うのか? そのメカニズムを明らかにしようとした本であり、カール・マルクスの『ブリュメール18日』(平凡社ライブラリー)に通じるものでもあります。
これはスピノザの遺稿で、執筆は途中で中断されています。かつてアントニオ・ネグリは、『神学政治論』には社会契約論的なパースペクティヴがあるにも関わらず、『国家論』にはそれがないことに注目し、社会契約論とは異なる地点にスピノザの政治思想を位置づけようとしました。またドゥルーズはこの本が民主制についての章で中断していることに注目しています。スピノザは民主主義者なのでしょうか? 民主主義についての議論が再び活発になってきている今、もう一度この書物を読んでみる必要がありそうです。民主主義批判の必要性については、白井聡さんの『「物質」の蜂起をめざして』(作品社)も参照してください。
ゲーテが愛読したとのことです。とにかく昔の人は書簡(メール)をたいそうな集中力で書いていて、しかもきちんと保存しておいてくれたのですから、本当に助かります。こうしたものが残っているお陰でどれだけ多くの真理が後世に伝えられたことか。ボクセルとの往復書簡における幽霊の話などは非常におもしろい(書簡五一から五六)。あと、大学のポストを提案されたスピノザがそれを断る書簡は感動的(書簡四八)。また私にとっては、書簡三七で紹介されているバウメーステルのスピノザへの問いは決定的に重要なものでした。
本当に有名な本です。ここではスピノザの『知性改善論』と並べて読むことをお勧めしておきます。デカルトは真理を探究しようと試みますが、しばしばそういう探求は日常生活を乱すことになるので(よく分かる...)、とりあえず日常生活もきちんと続けようと考えて、「当座の準則」というのを立てます(第三部)。真理を探究しつつもこれだけは守っておこうというルールです。たとえばそのふたつ目がおもしろい。森で迷ったならば、あちこちさまよい歩いてはならず、たえず同じ方角に行くこと。最初にその方向を選んだ理由は根拠薄弱だったとしても、そのようにすれば、望む地点には出られないにしても、どこかにはたどり着く...。さて、実はスピノザも同じような「若干の生活規則」というものを立てています。スピノザがいかにデカルトから大きな影響を受けていたのかを証し立てるひとつの証拠でしょう。そこにはたとえば次のようなものがあります。「快楽は、健康を保つのに必要な程度において享受すること」。
デカルトは『方法序説』が何と言っても有名ですが、おそらく敢えて主著を一冊挙げよ、と言われればこの『省察』になるのではないでしょうか。この本はその作り方が目を引きます。まず「省察」と題される部分を書く。それを様々な人たちに読んでもらい、その人たちから「反論」を集める。更にそれに対して「答弁」を書く。それらをまとめて一冊にして出来上がったのがこの本です。非常にハイブリッドな作りになっています。デリダの『有限責任会社』(法政大学出版局)を思い起こさせます。残念ながら「反論」と「答弁」の部分は文庫では読めません。このちくま学芸文庫の版は、山田弘明先生の訳も注も解説もすばらしいものですので、ぜひとも担当者様、「反論」「答弁」部分も文庫化をご検討ください!
デカルトがそれまでの著作をまとめ上げるようにして書いたもので、それまでの文章とは違い、かなり落ち着きが見られます。『スピノザの方法』ではデカルト哲学における説得の要請に注目していますが、『哲学原理』は実はこの説得の要請が非常に薄まっている書物です。『スピノザの方法』はスピノザ論ですから、デカルトについてはすこし単純化してしまったところもあります。ここで取り上げた三つの著作はどれも大きく性格が異なりますので、比較しながら読んでみるとおもしろいと思います。
國分功一郎さんコメント
一〇年間に新装増補版で出版されましたので、だいぶ入手しやすくなりました。それ以前は私も図書館で借りないといけませんでしたから。ありがたいことです。デカルトは、文庫では読めない重要テキストがいくつもありますので、この著作集には大変お世話になりました。私が『スピノザの方法』の第二部で詳細に分析している「諸根拠」はここでしか読めません。ヨーロッパでは全集をぺらぺらのペーパーバックで出すことがあるのですが(たとえばフィッシャー版のフロイト全集は全部で三万円しない)、日本でもああいったことはできないでしょうか? もうすこし安い版が出るとうれしいです。
本当にすごい本です。現在のスピノザ理解を決定づけてしまっている本だと言えるでしょう。しかし同時に、きちんと読まれていない本でもあります。この本はドゥルーズが、国家博士号論文『差異と反復』(河出文庫)に付した副論文であり、学位制度の要請を踏まえて書かれた、かなり堅めの学術論文です。したがって専門的に読み込むには相当な手続きがいります。スピノザのみならず、スピノザ研究史をある程度理解していないと細かな論点の理解は難しいでしょう。そうしたことを理解してもらいたかったものですから、『スピノザの方法』ではかなり意図的に、普段引用されないような箇所ばかりを引用しました。分析と総合の対立を巡る問題などは、アルキエとゲルーというフランス古典哲学研究の泰斗たちの学説を理解していないとなかなか飲み込めません。あのエチエンヌ・バリバールですら、『スピノザと政治』の中で「大変難解な書物」と評しています(Etienne Balibar, Spinoza et la politique, PUF, 1996〔このバリバールのスピノザ論は未邦訳ですが、水声社から邦訳が出版される予定のようです〕)。
しかし、こう述べた上ですぐに付け加えねばなりません。これはドゥルーズ自身が言っていることですが、哲学の本には二つの読み方があるのです。専門家として読むやり方と、非専門家として読むやり方です。そして非専門家としてなんとなく読んでも、この本はおもしろいんですね! そこがドゥルーズのすごいところです。今は思わず説教くさいことを書いてしまいましたが、そんなことは気にしないでとにかく読んでみることが大切です。たとえば身体について論じた箇所。「我々は身体が何をなしうるのかさえも知らない、とスピノザは言う」(p.231)。「我々は意識、精神、心、身体に対する精神の能力について語る。我々はこれらについておしゃべりはするが、身体に何ができるかということについて何も知らないのである」(p.265)。バリバールはこの本を第三部から読むことを薦めていますので、私も同じくそれをお薦めします。
いつかこんな本を書いてみたい。よく学生にドゥルーズは何を読めばよいのですかと聞かれます。またスピノザについても同じことを聞かれます。その時はこの本を薦めています。スピノザの生涯の描き方も、道徳と倫理の違いについても、用語集も、最終章のいかにもドゥルーズらしいエッセイも、何もかもがすばらしい。そして何より、翻訳のすばらしさをここでは強調しておきたいと思います。鈴木雅大先生の訳は極めて明晰で、しかも日本語としてのすぐれたリズムを備えています。こうしたすばらしい翻訳でこの本が読める日本語環境には本当に感謝しなければなりません。また解説で鈴木先生は日本語の「れる/られる」という助動詞からスピノザ哲学を読み解くという大変興味深い試みをなさっています。この助動詞には、「自発」〔自ずから何かが生まれること〕、「可能」、「受動」(更には「尊敬」)の複数の意味が折りたたまれています。「自発」なのに、「受動」とはこれいかに? ドゥルーズも、スピノザの『ヘブライ語文法提要』における(文法用語としての)「様相」の意味に注目していました。文法からスピノザを読む。実に刺激的な研究プログラムです。
スピノザを勉強しようと思い立った時に始めたのは、ここに収録されている「スピノザとゲルー氏の一般的方法」を読むこと、そしてそれを自分で翻訳することでした。その頃はまだこのアンソロジーがなかったので、雑誌論文をコピーして読んでいました。とはいえ全然歯が立たなかった。短いものですが、その内容は極めて高度です。理解と翻訳には五年ぐらいかかりました。私の翻訳は発表する場がないままお蔵入りしています。しかし、この作業の中で実に多くの知見が得られましたので、それを一つの論文にまとめることができました。よかったらお読みください(國分功一郎「総合的方法の諸問題――ドゥルーズとスピノザ」、『思想』、2003年6月号)。この文章はマルシアル・ゲルーという哲学史家のスピノザ論に対するドゥルーズの書評ですが、驚くべき強度のスピノザ論・ゲルー論になっています。これからスピノザやドゥルーズを研究したいと思っている方々にもこれを熟読することをお勧めします。
もちろん、ここに収録されている他の論文もすばらしいものばかりです。
巻末の「スピノザと三つの『エチカ』」は光学的な視点からスピノザを論じたもので、非常に美しい文章です。美しい文章ではあるのですが、すこし不親切な文章でもあります(ドゥルーズは晩年が近づくにしたがってどんどん書き物が不親切になっていく傾向がありました)。イメージが次々につなげられていき、気持ちはいいのですが、あまり勉強にならないというか...。それよりも私はここに収録されているロレンス論をスピノザとの関連で挙げておきたいと思います。ロレンスの『黙示録論』はこのリストにも挙げておきました。ロレンスの大衆批判はスピノザに直結するものです。つつましい、つつしみ深いと思われている人々こそが、迷信や無知から権力を渇望し、従属のために闘い、恐るべき仕業を成し遂げる。これはドゥルーズがフーコーの権力論から読み取ったテーゼでもありましたし(ドゥルーズ、『フーコー』、河出文庫、p.56-57)、スピノザの『神学・政治論』の序文で示された認識でもありました。
「疲労したものは、ただ実現ということを尽くしてしまったのにすぎないが、一方、消尽したものは可能なことのすべてを尽くしてしまう。疲労したものは、もはや何も実現することができないが、消尽したものは、もはや何も可能にすることができないのだ」(p.7)。「疲労」がやって来るのは、無謀で盲目的な「希望」が打ち砕かれた後ではないでしょうか。それに対し「消尽」とは、現実に対する透徹した認識から生まれる〝諦念ならぬ諦念〟でしょう。これについてドゥルーズは、「もはや何一つ可能ではない。つまり徹底的スピノザ主義である」と述べるのです。そうです。スピノザこそは、可能性というカテゴリーを認めない哲学者でしたから。
この本はドゥルーズが最晩年に書いたものですが、まだまだ若い頃、ドゥルーズは、幻滅はすばらしいとも書いていました(『プルーストとシーニュ』法政大学出版局)。なぜでしょうか? 希望ゆえに盲目的になっていた状態を幻滅によって破壊されたために、いままで見えていなかったものが見えるようになるからです。私はこのドゥルーズの冷徹な認識を踏まえた上で、その上で、希望についてどうやって語ることができるだろうかと考えています。それは「スピノザと希望」というテーマにもつながるはずです。
上野先生は現在の日本のスピノザ研究を引っ張っておられる方です。いくつもスピノザ論を出されていらっしゃいますが、ここではもっとも手に取りやすいものを。『スピノザの方法』の本文では一番最後の中でこの本に言及しました(p.349)。
日本のスピノザ研究において大変重要な本ですが、いまは言及されることも少ないようです。フランスでは最近、清水氏の仕事が紹介され、関心が高まっています。僕自身は『スピノザの方法』の中でこの本に疑問も呈していますが、やはり読まれるべき重要な著作です。また、このリストで紹介している安冨歩『経済学の船出』(NTT出版)のスピノザ論は、一種の「清水禮子論」になっており、彼女が生きた家族、社会、大学が抱える問題を非常に鋭く論じています。少々、胸が痛くなります。
安冨先生はいま私がもっとも注目している経済学者です。「なぜ経済学の本がここに?」と思われるかもしれませんが、この本の最後ではスピノザが論じられているのです。コミュニケーションについて考えようとした安冨先生は、communicationという語にex-をつけると「破門」という意味になることに驚き、しかもそこから「破門された哲学者」としてのスピノザを発見します。「スピノザの間違いは、複数の要素の「接続」とそこから生み出される「共感(同期)」とを混同して、それらを区別せずに「共通のもの」と認識してしまったことにあった」(p.239)。大変、重大な問題提起です。
日本語で書かれたスピノザ研究の書物の中で私が真に衝撃を受け、震撼したのがこれです。ラテン語やオランダ語はもちろんヘブライ語まで駆使して、旧約聖書のテクストを巡るスピノザとホッブズの対決を論じています。かつて友人たちと、「ヘブライ語が出来なきゃ、『神学・政治論』なんてわかんないよ」と呑気に言っていたものですが、本当にそういう人が現れた! また、当時の当時のオランダ社会の宗教的寛容の雰囲気も実に見事に描かれています。宗教的寛容と言っても、「ここら辺までは許すが、ここからは地下でやれ」みたいないろいろな事情があるんですね。私は書評も書いているので、よかったこちらも参照してください(國分功一郎「雰囲気の力」(福岡安都子著『国家・協会・自由』書評)、『環』、藤原書店、Vol.33、2008年4月、322~325ページ。)
スピノザは『神学・政治論』で旧約聖書を大々的に論じています。ところで、聖書ってどんなイメージをお持ちでしょうか? 聖書は何よりもまず書物です。書物ということは読めるということです。いつも学生に言うのですが、キリスト教と聖書を等式で結んではいけません。まずは単なる歴史的な文章の集積としてこの本を読む必要があります。そして読むとなんとこれのおもしろいことか! さしあたり『創世記』を挙げました。この岩波文庫版は訳者関根正雄氏による詳細な注が付されており、これは破天荒におもしろい。たとえば「アダム」は固有名詞だと思われているけれど、これはヘブライ語で「人」を意味する一般名詞である等々。
子どものころに聞いた昔話は大きくなっても覚えているものです。聖書のいろいろな物語も子どもの記憶にとどめておいてよいのではないでしょうか? この『聖書ものがたり』は分かりやすい言葉で書かれており、絵もとてもきれいです。昔話は残酷なものが少なくありませんが(「サルカニ合戦」なんて復讐によるリンチの話)、聖書もそうです。
この絵本は是非とも今回のフェアのリストに掲載したいと思っていたものでした。私は子どもにこの本を買い与えるまで「三ねんねたろう」の話を知らなかったのですが、衝撃を受けました。雨が降らないから火を焚いたり、神に祈ったりする農民たち。そこにはまさしく『神学政治論』が描き出す迷信の発生メカニズムがあります。ねたろうの寝てばかりの生活とは、このメカニズムに引きよされつつも、どうもそこに入りきれない、彼の逡巡が生み出したものです。そして最後にねたろうは、いきなり起き上がり、人にバカにされつつも水路を掘ることで、迷信の発生メカニズムがもたらす〝なれ合い〟と〝諦念〟の構造(精神分析的に言えば、「享楽の共同体」ということになるでしょう)を破壊します。なんと感動的な結末でしょうか。水路を掘る作業を子どもたちが手伝うところも感動します。社会を変えるのは、ねたろうとこどもたちです。
私が日本の哲学者の中で最も信用している人の一人が萱野さんです。既に彼は多くの著書を出していますが、やはりここでは彼の処女作である本書を挙げておきたいと思います。萱野さんと私で『スピノザの方法』について対談したこともあるのですが(『週刊読書人』2月4日発売号)、そのことからも分かるように、萱野さんはもともとスピノザを研究されていました。この本でもスピノザ主義者としての彼の態度が貫かれています。特に国家の定義がそれです。一見したところマックス・ウェーバーのそれを発展する形で行われていますが、実際に本文でも引かれている通り、基本にある考え方は『知性改善論』の定義論なのです。つまり、対象の最近原因をもって対象を定義するというやり方です。後半の資本主義論も必読です。
國分功一郎さんコメント
この全三巻のシリーズは私がデカルトを読む上で決定的な手助けをしてくれました。フランス、英語圏、日本での代表的研究がコンパクトに紹介されており、大変役にたちます。私が最も注目して読んだのは、ヤーッコ・ヒンティッカ「コギト・エルゴ・スムは推論が行為遂行か」(英米篇所収)と、持田辰郎「デカルトにおける神の観念の精練と、神の実在のア・プリオリな証明」(日本篇所収)です。どちらも『スピノザの方法』の第三章で扱っています。とりわけ後者の持田氏の論文は、それなしでは『スピノザの方法』の議論が大きく変わってしまうぐらい、私にとって重要なものでした。
スピノザ研究業界では大変有名な本です。マシュレという人はルイ・アルチュセールのもとで学び、マルクスを研究した後に、スピノザ研究を始めました。そのような経歴の人だからこそ、ヘーゲルとスピノザを並べてみることができたのでしょう。私は『スピノザの方法』の中で、この本を批判的に取り上げましたが、いまでも読まれるべき本であることは間違いありません。
ダマシオの仕事は今後私が真剣に取り組みたいと思っているものです。私の平行論の理解は彼から決定的な影響を受けているからです。私はかつてスピノザの平行論とは「実際に世界がどうなっているかどうかはともかくとして、心と体が平行していると考えればうまく生きられるよ」という類のものだと、つまり、世界についての(有益な)一解釈に過ぎないものだと考えていました。ところが、脳神経学者ダマシオによれば、そうではない。我々の存在はまさしく平行論的だと言うのです。是非お読みください。いまの「脳ブーム」の中でスピノザを読むための第一歩です。
ここ数年、「脳ブーム」が続いていますが、出版されている本は本当に玉石混合です。特に問題なのは全体の見通しを与えてくれる本、実際に何を読めばよいのかを教えてくれる本が少ないということです。山本氏と吉川氏のこの本はまさしくそうした役割を果たしてくれる本です。17世紀に関心がある私に特におもしろかったのは、デカルト以降、実のところ脳についての認識はそう進んでいないという話です。心と体の関係はどうなっているのか、シナプスの発火といっても、松果腺といってもあまり変わらないのではないか、と彼らは言うのです。ブックガイドもすばらしいできです。是非、手にとってください。
私はスピノザの言う「直観知」というものが最初まるで分かりませんでした。それが分かってきたのは、ベルクソンの「哲学的直観」を読んでからです。哲学研究者はある哲学体系に接すると「この要素は誰それから来た、ここは誰それから来た」と要素に分解してしまいがちです。「人間は新しいものが出現しても、それを古いものに還元しようと試みつくしたあとでなければ、新しいものを理解し始めないものです」(p.81)。しかし、要素を集めるだけではその哲学体系には決して接近できない。ある哲学に接することができるのは、その哲学の始原にある一つの単純な直観に触れたときです。小説の中の人物について作者がどんなに詳しい説明を試みようとも、その人物に実際に会ったときに経験される分解し得ない感情と等価なものは得られない(「形而上学入門」p.6)。そして小説を読み進めるとそうした経験が得られるのです。この具体的なものとの出会いこそ、「直観知」に他なりません。
フロイトの教えの中で大切なもののひとつは、意識は心の活動のほんの一部に過ぎないということです。心の活動のほとんどは無意識によって占められている。無意識はすさまじい速度で情報を処理するマシーンであり、その処理結果の一部を意識は受け取っているに過ぎない。これはそのままスピノザの『エチカ』の考えにつながります。「意識の主権」を疑った点において、スピノザはフロイト精神分析の起源にある哲学だと言えるでしょう。フロイトにはつまらない文章は一つもないので、どれを選ぶか迷うのですが、入手しやすい文庫版の『自我論集』と、本当にびっくりしてしまう話で満載の『日常生活の精神分析』を挙げておきます。岩波書店さん、是非とも『日常生活の精神分析』を文庫化してください!
「たった一つの代案だけが残る。すなわち、ミミズは体制こそ下等であるけれども、或る程度の知能を持っているということである」(p.94)。ミミズによって大地はかき回されている。大地はすこしも不動ではなく、ミミズによって流動化されている。それだけではない。穴ふさぎをするミミズは、ダーウィンの悪戯にも柔軟に対応する。その結果は驚くべきものです。知能、あるいは知性とは、能力として精神の中に存在するものというよりは、むしろ、状況に対応しようとする行為そのもののことではないでしょうか? 人間は動物には「本能」しかないと、しかもその「本能」は固定的なプログラムであると考えがちです。しかし、そんな偏見は既にダーウィンによって打ち砕かれている! 本能とはむしろ、満足を得ようとする傾向性として理解するべきでしょう。満足を得ようとするとき、生物は「知性」を発揮するのです。
ダーウィンのミミズの研究は驚くほどの長い年月をかけて行われています。作者はそれを紹介しながら、実際にその研究の後を発見しようと現地に赴きます。ダーウィン『ミミズと土』とあわせて読めば理解が深まると思います。子どもにこの絵本を読み聞かせながら、『ミミズと土』の話をしてあげるとおもしろいのではないでしょうか。
私はこの本を題材にして小学生に哲学の授業をしたことがありますが、驚くほどによい反応でした。ここで語られていることは決して難しくない。むしろ子どもの方が人間中心主義を身につけていないだけ、ここで語られていることを理解しやすいのかもしれません。とはいえ、ユクスキュルの環世界という考え方の持つ爆発力は相当なものでしょう。どんな生物も独自の仕方で時間と空間を構成している。全生物がその中に投げ込まれているような「世界」なるものは抽象的なものとしてしか存在しない。ジル・ドゥルーズはユクスキュルの生態学éthologieには、スピノザの倫理éthiqueに通じるところがあると述べています。道徳moraleが、規範を定めそれに精神と身体を従わせるものであるとすれば、倫理とは、一つの環境の中で、触発し、触発される力の組み合わせであり、それこそ環世界論が描き出したものに他ならない...。日高氏の本はさらに詳しく「動物と人間の世界認識」について教えてくれる好著です。
この本はそこに掲載されている「スピノザの事例」のために挙げました。スピノザは若い頃にユダヤ教会を破門されています。ラビたちは悔悛を求め、破門の取り消しを望んでいたらしいのですが、スピノザにはその意志などまるでなく、「弁明書」を書いて彼らに反論しました。つまり、いまもスピノザはユダヤ教会から破門されているのです。それに対し、イスラエルの初代首相ベン・グリオンはスピノザを復権するべくこの破門の解除を提案しました。それに対し明確に反対の立場を貫いたのがレヴィナスです。レヴィナス自身の哲学についてはここでは述べられませんが、スピノザという存在が今も一つの問題を形成していること、イスラエル国家の問題と無関係でないことを物語る重要なエピソードです。イスラエル国家とヨーロッパ思想の関係については、早尾貴紀氏の名著『ユダヤとイスラエルのあいだ――民族/国民のアポリア』(青土社)を参照してください。
私はユダヤ思想には詳しくないのですが、やはりスピノザを読む以上、無視はできません。留学中に書いた論文では甚だ不十分ではありますが、マイモニデスについても論じていました。グットマンの本は「ユダヤ哲学」なるものの通史であり、読み応えがあります。グットマンが「スピノザの体系は正しくは、ユダヤ哲学の歴史によりもむしろ、ヨーロッパ思想の展開に属している」(p.265)と述べているのは彼がまさしくスピノザを正確に理解していたことの証拠でしょう。
「ルクレティウスと同様に、彼〔スピノザ〕は神々の不確実さに確実な自然の像を対立させる。つまり、自然と対立するものは、文化でも理性の状態でも、市民状態でもなく、むしろ人間のあらゆる企てをおびやかす迷信だけである」(ドゥルーズ、『スピノザと表現の問題』、法政大学出版局、p.283)。
「《哲学は何の役にたつのか?》と問う人には次のように答えなければならない。自由な人間の姿を作ること、権力を安定させるために神話と魂の動揺を必要とするすべての者を告発すること、たったそれだけのこととはいえ、いったい他の何がそれに関心をもつというのか?」(ドゥルーズ、「ルクレティウスとシミュラクル」、『意味の論理学』、河出文庫、下巻、p.178)。
「『黙示録』は「貧しき者」、「弱き者」たちの報われるべき権利を主張するが、この人々は一般に信じられているように、へりくだった気の毒な人々ではない。彼らこそは、まさに衆の心しかもたない、まことに恐るべき人々なのだ。〔...〕衆の心は〈権力〉を望んでいる。が、〔...〕ロレンスの話はそれほど単純ではない。〔...〕一方ではそれは権力の破壊を願い、権力は権力者に憎悪を向けている。〔...〕しかしその一方で同時に、この衆の心は、権力のあらゆる微孔にしのびこみ、その胞子をひろげ浸透して、ついには全世界を制することをも望んでいる」(ドゥルーズ、「ニーチェと聖パウロ、ロレンスとパトモスのヨハネ」、『批評と臨床』、河出文庫)。
國分功一郎さんコメント
まさしく近代政治理論の起源にある本です。ホッブズのリアルなセンスは、今でも多くのことを教えてくれます。特に、自然状態が戦争状態になるのは人間が平等だから、機会が平等だからという論理展開は大変興味深いものです。最初から読み始めると冗長に感じるかもしれませんので、さしあたっては第一部第十四章の「自然法」の話から読み始めるのがよいでしょう。スピノザは自らの政治理論とホッブズのそれとの違いを説明して、ホッブズとは異なり自分は社会状態においても自然権が維持されると考えていると述べました。本当はホッブズの理論構成でも突き詰めていけばそうなるはずなのです。自然権とは誰かから与えられた許可や資格――通常の「権利」とはそういうもの――ではなく、ある人が何をしてもよいという事実そのもののことです。何をしてもよいという状態から、何をしてもよいわけではない、〝自制〟する状態への移行こそ、自然状態から社会状態への移行に他なりません。自制しているだけですから、本当は何でもできます。つまり社会状態においても自然権は維持されているのです。
レオ・シュトラウスはいまではアメリカのネオコン(新保守主義)の起源にある思想家として有名になってしまいましたが、政治思想を勉強する上では絶対に避けて通れない重要な思想史家です。シュトラウスの論の運びというのは、自分の言葉だけで全てを組み立てていく類のもので、本当に読み応えがあります。『自然権と歴史』などは絶対に文庫化すべきでしょう! 哲学とは自然の発見であり、自然を発見するとは、自然なものとそうでないものとの区別を発見することである。つまり、自分のコミュニティーで当然と思われていることが実は当然ではないと発見することである。私はシュトラウスによるこの哲学の定義にしびれました。しびれて、「自然主義者の運命」という論文まで書いてしまいました。それが掲載されている、『思想』レオ・シュトラウス特集号(2008年10月号)もあわせてご参照ください。私は翻訳もしています。
國分功一郎さんコメント
スピノザの『神学・政治論』とあわせて読みたい本です。ドゥルーズ=ガタリはこう言っています。「政治哲学の基本的な問題は、依然としてスピノザが提起することができた次の問題(この問題を再発見したのはライヒである)につきることになる。すなわち、「なぜ人々は、あたかも自分たちが救われるためででもあるかのように、みずから進んで従属するために戦うのか」といった問題に。いかにして、人は、〈パンを切りつめても、もっと多くの税金を〉などと叫ぶことになるのか。ライヒが言うように、驚くべきことは、或る人々が盗みをするということではない。また或る人々がストライキをするということでもない。そうではなくて、むしろ、飢えている人々が必ずしも盗みをしないということであり、搾取されている人々が必ずしもストライキをしないということである」(『アンチ・オイディプス』、河出文庫、上巻、p.62)。
『スピノザの方法』では第一章で、懐疑論者=ソフィストという概念人物を登場させています。そこで取り上げたのがメノンです。曰く、「人間は、自分が知っているものも知らないものも、これを探求することはできない。まず、知っているものを探求するということはあり得ないだろう。なぜなら、知っている以上、その人には探求の必要はないわけだから。また、知らないものを探求するということもあり得ないだろう。なぜならその場合は、何を探求すべきかということも知らないはずだから」(80E)。ただ私のソフィストの扱いは非常に雑です。プラトン研究の世界的権威である納富先生の著書は哲学そのものの誕生とソフィストとの関係を問う、まさしく知的興奮の書です。ソフィストに関心をもたれた方は是非ともご参照ください。
國分功一郎さんコメント
哲学史の中でスピノザを受け継いだ者は誰か? 誰よりも先にフィヒテの名前を挙げなければならないでしょう。フィヒテはカント哲学を批判的に乗り越えるべく、スピノザ哲学に注目しました。A=Aの等式によって説明される体系構築の方法は実にスリリングです。日本では専門家以外にはほとんど名を知られていませんが、私が『スピノザの方法』の中でも何度も参照しているマルシアル・ゲルーという哲学史家がいます。彼はスピノザの専門家として有名ですが、フィヒテについての浩瀚な研究書を著しています。ジル・ドゥルーズはスピノザを論じる中で何度もゲルーのフィヒテ論に言及しています。『ドイツ国民に告ぐ』がナショナリスティックであるなどという理由でフィヒテが読まれなくなっているのは大変残念なことです(しかも『ドイツ国民に告ぐ』(玉川大学出版部)も実はおもしろい! フィヒテがフランス軍に対して述べていることは胸を打ちますし、あの演説集は教育論としても読めます)。なお、スピノザ=フィヒテ=ドゥルーズを結びつけて論じた拙稿がございますので、是非ともご参照ください(國分功一郎「総合的方法の諸問題――ドゥルーズとスピノザ」、『思想』、2003年6月号)。
『フィヒテ/シェリング』(世界の名著43)に収録された「人間的自由の本質」とあわせてお読みください。フィヒテがカント哲学を乗り越えるべくスピノザ哲学を召喚したとすれば、シェリングはスピノザ哲学の乗り超えを目指しました。索引を見ればどれほどスピノザが多く論じられているのかがわかるはずです。この本はその「人間的自由の本質」についてのハイデッガーの講義の記録です。ハイデッガーがスピノザに言及するのは決して多くないので、貴重なドキュメントとなっています。ジャック・デリダは「ハイデッガーにおけるスピノザの排除(forclusion)」と言っていました。スピノザがユダヤ系だからなのでしょうか? ではこの『シェリング講義』でのスピノザ扱いはどうか?
少々風変わりな思想史の試みとなるかもしれませんが、スピノザに通じる思想家の一人として、私はシャルル・フーリエの名前を挙げたいと思います。彼は情念そのものを肯定し、その力を倍加していく、そんな社会を構想しました。情念を押さえ込むと別の形で噴出してしまう。だから水道管の流れをよくするように情念の流れをよくし、社会はその流れの整流装置として機能すべきである。まさしく情動の思想家スピノザに通じる認識でしょう。『愛の新世界』を翻訳された福島知己さんは、パリに保存されている草稿まであたってこの翻訳を完成させました。現時点での世界最高水準のテキスト校正および翻訳です。石井洋二郎先生の『科学から空想へ』はともすれば「変人」として片付けられるフーリエを(実際のところ、生きている間に一度も笑わなかったとか、変人なんですけど...)、非常に明晰に位置づけるとともに、フーリエ作品を「長大な散文詩」として読むという刺激的な観点を出しておられます。同書の最後の言葉を引用――「いまこそ、フーリエを!」
國分功一郎さんコメント
フーコーも是非このリストで取り上げたかった哲学者です。フーコーとスピノザが結びつけられることはめったにありません。しかし、彼のデビュー作である『狂気の歴史』と、権力論から倫理へと転身を遂げた晩年の講義録『主体の解釈学』の双方において、スピノザが、しかも『エチカ』ではなくて『知性改善論』が大々的に取り上げられているのです。『狂気の歴史』によれば、17世紀においてはまだ理性の地位が確立されておらず、非理性が理性を常に脅かしていた。そのため哲学者は確固たる決断によって非理性を振り払い、理性を獲得するために邁進しなければならなかった。デカルトの『方法序説』でも、スピノザの『知性改善論』でも、最初に決断が語られるのはそういうわけだというのです。その後、19世紀になると理性は実証的に肯定されるようになり、理性が非理性を脅威に感ずることはなくなります。しかし、それは何かを覆い隠すことによって成立した危うい足場ではないだろうかとフーコーは問いかけるのです。晩年の『主体の解釈学』においては古代ギリシャを参照しつつ、フーコーはこう述べます――真理はある時から、認識の対象になってしまった、と。かつて真理とは、真理に見合うだけの高みに主体が到達したときに初めて体得できるものでした。ところが「デカルト以降」、真理は認識を重ねていけば手に入るものになってしまったと言うのです。そこでスピノザが言及されます。スピノザこそは「デカルト以降」の時代にありながらも、主体の修練と真理の獲得とを相関させて考えていた哲学者だと言うのです。これは極めて正確な認識であり、また『スピノザの方法』第一章が論じるスピノザの真理観ともぴたりと適合します。フーコーとスピノザ、実に重要な研究テーマです。
『スピノザの方法』の序章で、「とにかくスピノザを愛さねばならないという不文律ができあがっているようにさえ思える」と書きましたが、これはジジェクの「スピノザを愛せないなんて?」という言葉を念頭に置いて書き記したものです(p.72)。ジジェクという人はとにかく時代の雰囲気に対する嗅覚が鋭い人です。こういう認識はおさえておくべきでしょう。ジジェクはいつものように意地悪(?)で、『国家論』に現れるスピノザの女性差別発言を引用しています(p.78)。ドゥルーズ=スピノザがあまりにも安易に、あまりにも無思慮に肯定される雰囲気というのは確かにありますので、気をつけるべきです。私自身、「スピノザを愛せないなんて?」という雰囲気には抗いたい気持ちがあります。
國分功一郎さんコメント
スピノザをテーマに何か文学作品も...と考えて思いついたのがトゥルニエのこの小説でした。これはロビンソン物語に取材した一種の哲学小説です。無人島には自分しかいない。他者がいない。するとどうなるか。ドゥルーズはこの小説を論じた論文の中でこんなことを言っています。「私が島において見ないものは、絶対に知られないものである」(『意味の論理学』、河出文庫、下巻、p.233)。我々が「世界は存在している」と思えるのは、私が見ていない部分は誰か他の人が見ているという信念があるからである。だから、その「誰か他の人」がいなくなってしまうと、そうした知覚の構造が崩壊してしまう。目の前にあるものしか存在しないことになり、ひいては可能性というカテゴリーそのものが存在しなくなる。ここからドゥルーズは「これは異様なスピノザ主義である」「倒錯的な世界とは、必然的なもののカテゴリーが可能的なもののカテゴリーに完全に取って代わった世界である」と述べるのです。これはいわば世界そのものの条件ではないでしょうか? 我々は、他者の存在を知っているから、先に述べた信念を形成することができているに過ぎないということになるのではないでしょうか? すると無人島はどこにでもあるということになるのです。実は我々は「異様なスピノザ主義」の世界を生きているということになるのです。
この本はベケットがジョイスを論じた「ダンテ・・・ブルーノ・ヴィーコ・ジョイス」の中のたった一言、『フィネガンズ・ウェイク』を評した言葉のためにリストに挙げました。曰く、「氏〔ジョイス〕の文章はなにかについて書いたものではなく、そのなにかそのものなのである」(p.106)。『スピノザの方法』で論じた通り、スピノザの『エチカ』の体系もまた、存在と完全に一体化した認識を目指します。つまり、存在について認識を形成していくのではなくて、認識が存在に追いつき、一緒になってしまうのです。そうしたことが可能であろうかともちろん問うべきです。しかし、スピノザがそのような途方もないことを企てていたことは知られるべきです。私はジョイスのことは詳しくないのですが、ジョイス文学の観点からスピノザを読むことは可能であろうと思います。
『スピノザの方法』を手にとっていただけた様々な方から、何度も、表紙がすばらしいというお言葉をいただきました。フェルメールの「小路」という絵です。これは編集をご担当いただいた遠藤敏之さんのアイディアなのですが、もしかしたらスピノザがここを歩いたかもしれないという気持ちで作ったものです。ある方からは、「きわめて日常的でありながらもどこかこの世のものとも思われない雰囲気のある絵です」との感想をいただきました。フェルメールの絵は日常的な風景を描いたものばかりですが、確かに不思議な雰囲気があります。浅田彰氏はかつてフェルメールについて「光がある。光があって闇はない」と述べ、この光の画家を闇の画家レンブラントと比較しました。光だけがある世界。それは確かにこの世のものとは思われない不思議な世界です。スピノザはこの世界に光だけを見ていたのか。それとも光と闇を見ていたのか。存在の肯定性と関わる大きな問いであるように思われます。
「じんぶんや」とは?
こんにちは。じんぶんやです。
2004年9月、紀伊國屋書店新宿本店に「じんぶんや」という棚が生まれました。
「じんぶんや」アイデンティティ1
★ 月 が わ り の 選 者
「じんぶんや」に並ぶ本を選ぶのは、編集者、学者、評論家など、その月のテーマに精通したプロの本読みたちです。「世に溢れかえる書物の山から厳選した本を、お客様にお薦めできるようなコーナーを作ろう」と考えて立ち上げました。数多の本を読み込んだ選者たちのおすすめ本は、掛け値なしに「じんぶんや」推薦印つき。
「じんぶんや」アイデンティティ2
★ 月 が わ り の テ ー マ
人文科学およびその周辺の主題をふらふらと巡っています。ここまでのテーマは、子どもが大きくなったら読ませたい本、身体論、詩、女性学...など。人文科学って日々の生活から縁遠いことではなくて、生きていくのに案外役に立ったりするのです。
ご愛顧のほど、どうぞよろしくお願いします。
「じんぶんや」バックナンバー
こちらのページから今までの「じんぶんや」をご覧いただけます。
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【じんぶんや第68講】 國分功一郎選「スピノザに近づいてみる――「倫理」と「思考」のための60冊+α」
■場所 紀伊國屋書店新宿本店 5Fカウンター前
■会期 2011年2月11日(金)~3月10日(木)
■お問合せ 紀伊國屋書店新宿本店 03-3354-0131




























































