【じんぶんや第67講】 郡司ペギオ―幸夫選「内側からみた偶然=仏陀の微笑」
郡司ペギオ―幸夫さんエッセイ「内側からみた偶然=仏陀の微笑」
偶然を決定論的力学系という必然によって生成するカオス力学系。それは当初、気象データや、昆虫の個体数変動を記述する方程式など、既存の概念の中に発見された。カオス力学系を、初めてゼロから出発して構成してみせたのが、チュービンゲン大学のオットー・レスラーである。混沌は、こうして「必然と偶然を裏表に持つコイン=或る力学系」をモデルとするに至った。しかし、レスラーはそのような描像に満足したわけでもなかった。その後レスラーは、世界を内側から見た描像、内在物理学(エンドフィジックス)を提唱する。
2010年11月初旬、私はレスラーをチュービンゲンに訪ねた。ホテルまで迎えに来てくれたレスラーの自宅は、部屋のみならず廊下にいたるまで、壁という壁、柱までもが本で覆われていた。我々は、二つの概念が全く異なり、各々がアイデンティティーを主張しながら、同時に渾然一体となった概念装置について議論した。偶然と必然、タイプとトークン、普遍と個物のような二者が、明確に区別されると同時に混同され一体化される。そのようなものこそが混沌として実在し、そこから、偶然と必然、タイプとトークン、普遍と個物とが、或る種の極限として派生する。
私はレスラーに聞いてみた。毎朝わたしが覚醒すると世界が立ちあがる。世界としての、唯一無二のわたしのモデルを、同時に世界の中に見出そうとするなら、それは目の前の他者でしかあり得ない。赤ん坊はこうして、母親を「わたし=世界」のモデルとして採用するだろう。このとき他者は、唯一無二のわたしであると同時に、他のだれでもあり得るという複数性を担うこととなる。それは複数性の肯定による社会性の肯定であると同時に、一者に矛盾する他人の存在を否定するものでもある。邪悪の起源とでもいうべきものが、実は内在しているのではないか、と。
レスラーはこう答えた。一者であり社会でもある母親の顔、それこそが仏陀の微笑である。仏陀の微笑は、母親だけではない。それは世界の至るところにあふれる媒介者である。
仏陀の微笑は、偶然と必然をどのような形で渾然一体と実装するか。偶然の全体を分布として眺めるなら、偶然と実現された結果としての必然とは、全体と部分という関係となる。このような混同は、猫一般と目の前の三毛猫のいずれがかわいいかを比較するような、レベルの混同を意味する。それは一見馬鹿げたことに思える。しかし、我々はまさに目の前の異性と異性の理想像を比較するようなことを日々行っているではないか。普遍と個物の混同を「いま・ここ」において絶えず実現している。「いま・ここ」こそが、レスラーの言う、仏陀の微笑そのものといえる。
可能性(偶然)と実現される個物(必然)を仏陀の微笑とするとき、可能性の束自体が実現される個物であることを認めざるを得ない。複数の可能性が同時に成立すること、それが可能性の束としての実現される個物である。それは相互予期を示唆するものだ。
実はわたしはここ2年ほど西表島のミナミコメツキガニの群れ行動を研究し、群れ行動の原動力に相互予期=潜在性の共鳴を実装する必要があると考え、モデルを考案した。潜在性の共鳴において、可能性をもたらす偶然は、群れとしての必然に積極的に寄与することとなる。それは必然と偶然が対立項を成し、両者のうまいバランスの上に現象する描像、カオス(偶然)と構造(必然)の臨界現象という描像とは、根本的に異なるものである。相互予期を実装したモデルにおいてはじめて、群れに一個の身体を見出すことができる。仏陀の微笑が自然科学の言葉で展開されるとき、我々はいよいよ新たな地平へと踏み出すことになるであろう。
ホテルまでタクシーで送ってくれたレスラーは、帰りはバスで帰ると、バス停まで歩き出した。20mほど歩いては振り返って両の腕を大きく振り、これを見えなくなるまで何度も繰り返していた。その光景もまたレスラー言う所の仏陀の微笑であった。果たして我々はいかにして仏陀の微笑を実感し、開設するか。ここではそのためにヒントとなる本を、ドレツキを出発点にして、いくつか挙げることにする。
郡司ペギオ―幸夫(ぐんじ・ぺぎお―ゆきお)さんプロフィール
1959年生まれ。理学博士。専攻は理論生命科学。東北大学大学院理学研究科博士後期課程修了。神戸大学大学院理学研究科地球惑星科学専攻教授。
著書に『生成する生命』、『私の意識とは何か』(哲学書房)、『原生計算と存在論的観測』(東京大学出版会)、『生きていることの科学』、『時間の正体』(講談社)など。
郡司ペギオ―幸夫 青土社
神経細胞の群れに過ぎない脳は、一個の全体として、意識を開設している。部分の総和と、一個の全体、両者は論理的にも異なる概念で、辻褄が合わないにもかからわらず、共立している。この両義性は、生命の本質だ。ものの集まりでありながら、生きた全体を成す。この両義牲を我々は、どのように理解すべきだろうか。ものの総和と一個の全体、構造と機能、個物と普遍、これらの両義性の間には、動的で不定な媒介者が認められる。この媒介者を理解するためには、何か強力なメタファーが必要だ。それが、砂山のパラドクスを隠蔽・無効にする、日常生活で想定される砂山である。
砂山のパラドクスとは何か。砂粒子から構成されるはずの砂山は、あまりに無際限の数の砂粒から成る。だから、砂山から砂粒を一粒取り除いても、砂山は砂山だ。この仮定は妥当に思える。しかし砂粒を一つずつ、際限なく除いていくとどうなるだろう。必ず最後の一粒にたどり着く。それは仮定から砂山でなくてはならない。すると砂山の部分を成す砂粒が、全体である砂山となってしまい矛盾する。果たして、砂粒の集まりと一個の全体としての砂山という両義性は、矛盾を帰結する。しかし日常的に有限でありながら、無限に言及する何かであると想定される砂山において、誰も矛盾を気にしない。これが矛盾を隠蔽し、無視することで無効にする砂山のありようだ。 砂粒の集まりと砂山性の区別を無効にした操作を定義し、日常的砂山を実装する。こうして動き出すのが、生命壱号なのである。(郡司ペギオ―幸夫)
郡司ペギオ―幸夫さん選書リスト
個物の集まりであると同時に一個の全体を成すと考えざるを得ないもの。それは、「わたし」のこの意識をおいて他にあるだろうか、と皆が考える。ドレツキは心の表象主義テーゼと外在主義を掲げ、私秘的な心を、表象の総和として外部に構成せんとする。ドレツキが用意する道具立ては、規約と自然、経験と思考、表象される性質と対象といった区別であり、同時に両者の相互変換についても言及する。誤表象などの装置は、両者の相互作用を論ずる契機となり得るものだ。しかし両者の相互変換、調停に、深く踏み込むことはなく、システムが対象と或る関係(文脈)のもとに或る性格を表象するとき、システムはかかる対象を指し示すと彼は唱える。こうして文脈は、システムと対象の間・関係を無化し、両者の関係を置換という跳躍に置き換えてしまう。媒介者なき跳躍は、関係を無化することで、わたしと世界の関係を無化し、わたしにおける世界のみを先鋭化し、結晶化する。それは一人称の哲学であり、主観である。こうして心が、クオリアが、自然化された、と主張されることになる。
自然科学は絶えず前提が変化し得る。我々はその大いなる拡張をもって、心を自然化することを可能とするだろう。ドレツキの試み自体はしごく当たり前のものだ。しかし自然化を焦ることはない。完全に閉じた形式を、静的に定義する限り、主観は「これ」のみの哲学として構想され、「それ」でもあり得るという世界内存在として理解されることがない。「これ」が「それ」でも有り得る二人称の哲学を志向しない限り、心は一人称として説明できてしまう。
人工知能の表象主義が批判され、ロボットによる集合知が登場して以降、認知的表象を命題として扱うことへの批判が起こり、前提を拡張した上での表象主義が、グレイザーフェルドやリーグラーによるラジカル・コンストラクティビズムとして展開されつつある。ドレツキの問題設定や概念装置を用いて、表象主義を拡張するとき、システムと対象の間は無化されず、そこに相互作用の場が要請され、媒介者=仏陀の微笑が要請されるはずだ。ドレツキを読む各自は、彼の豊富な概念装置を用いて、それを行うべきであろう。
赤の知覚(目の前の赤を赤であるとみなす直接の情報処理過程)と赤の感覚(目の前の赤の脳内表象に対する情報処理で、間接的な過程)のように、従来、逐次的・階層的と想定されたような種類の情報処理過程を、独立で並列的なものと捉え、その全体として意識を構想する。この枠組みにおいて、見えが成立しながら見えているという実感のない盲視などを説明する。この先にあるはずの、二つの異なる情報処理の動的な調停過程や、その総和が成す全体と一個の意識の関係については踏み込まれることがない。動的な調停を構想するためには、媒介者が必要となり、仏陀の微笑が要請されるはずだ。一個の意識がどのように自然化するか、読者は自ら考えるべきだ。
ラジカル・コンストラクティビズムの始祖がマツラナである。オートポイエーシスもまた、外部と内部をうまく接続してしまう一人称の概念装置である。ただし読者もまたその地点に留まる必要はない。一人称に世界を接木するのではなく、そもそも二人称として構想し直す。このとき、内部と外部の動的調停には、どうしても仏陀の微笑が必要となる。
レスラーによれば、マツラナは正しいことしか言わず、自明なことしか言わないらしい。しかしラジカル・コンストラクティビズムは、異なる概念装置の調停を構成するために、いかなる理論的拡張をも許容するものだ。その視線の向きは妥当だろう。
オートポイエーシスはドレツキや『現象論的意識』とあわせて読むべきだろう。マイケル・タイやショーン・ギャラガーはドレツキ以降の表象主義と人工知能の境界領域に、現象論的意識、現象論的心を展開する。ただしまだ、翻訳がみあたらない。
哲学と認知科学の間に横たわる大きな溝は、身体性に寄せる信頼度の違いだろうか。哲学者の多くは、このわたしの身体は動かしがたいもので、自明なものだと考える。ジョージ・レイコフとマーク・ジョンソンの『肉中の哲学』は、その意味で分析哲学者に衝撃を与えたのだろうか。ラマチャンドランの、伸びる鼻の実験や、視覚と触覚の同期によって得られる身体の転移(ゴムの手錯視や体外離脱感の構成)は、身体の可塑性と、逆説的に可塑性に根拠づけられた頑健性を実感させてくれるだろう。
身体感覚には、思うように自由に動かせるという操作感覚と、自分のものであるという所有感覚がある。もし所有感を実体に対置するなら、操作感はそれに規定作用を接続した高次概念となる。逆に操作感を、操作対象の指定に根拠付けるなら、所有感は操作対象の離接が開設する全体といった高次概念となる。つまり所有感と操作感は、接続しがたい二つの情報処理系であり、両者の動的調停としてしか、いわゆる身体はもたらされない。ここにもまた、仏陀の微笑を、認めざるを得ないのである。
郡司ペギオ―幸夫さんコメント
歩きながら道をでっちあげる。道という規範と、わたしの、この局所的な歩みとが、いずれかを根拠とすることなく、歩行行為を進行させる。歩くとは、足を踏み出すことで、道とは歩いた結果であると同時に、足を置く場所を指定する可能性だ。もし道が、このわたしの歩行を根拠付けるなら、道は未来であり、予め用意される可能性の束だ。もし道がわたしの歩みによってできるというだけなら、道は過去であり、必然である。いま・ここで歩くこと、すなわち道である、ためには、道は可能性であり必然性、過去であり未来である。それは、一歩の足の大きさに比して大きな面でありながらも、いま・ここにおいて一歩の足と重ね合わされ、ぴったり一致し同一視されるものに違いない。この一歩に一致する可能性のひろがりこそ、予期される一歩である。それは、一歩の足(必然)と可能性の束(偶然)を対立させ、可能性において一点(必然)を指定せんとする予測とは、本質的に異なるものだ。予測は、予測の成功、失敗が確定できる。予期はそれができない。予期しながら歩くこと、それこそが、歩きながら道をでっち上げる過程だ。予期を成立させるように歩行を構成すること。それがこの言い回しの現代的表現となる。
足し算一般と、2+5のような個別的計算を接続できるか、という問いによって、我々は規則に従っているか、と問われる。ここに出現する懐疑論者は、接続できないと示すために、未知の数を、具体的な数によってモデル化する、という禁じ手を使ってしまう。しかし、それこそが、実は仏陀の微笑である。未知の数と具体的数が、ぴったり一致してしまうような概念装置を導入し、それを媒介者とすることで、加法一般と個別的計算の接続を試みるのだから。接続が成功するか否かではなく、接続可能と論証できる、あるいは不可能と論証できる、とするために、仏陀の微笑が使われるのである。
しかしクリプキ自身は、おそらく、媒介者=仏陀の微笑に気づいてない。だから一般と個別の接続において、我々は常に暗闇の中の跳躍をし、共同体が必要であると説く。暗闇の中の跳躍は、ドレツキにおける置換知覚に符合してしまうのだ。
郡司ペギオ―幸夫さんコメント
この現在の、いま・ここは、起源の反復として存在する。一回しかない宇宙の起源が、不断に繰り返される。いま・ここは、仏陀の微笑だ。いま・ここに裂け目が現れ、蝶番がはずれるとき、出来事がばらばらになって渦を成し、永劫回帰の時間をもたらす。それはわたしにとって、仏陀の微笑を局所的な点で相互予期として実装した、群れのイメージそのものだ。わたしの著作、『生命壱号』の表紙を飾ってくれた日本画家の中村恭子は、逆にもともと繋がりながらばらばらになったランと昆虫を「百刻みの刑」としてイメージ化し、作品に仕上げている。
ドゥルーズはヨーロッパ的教養を要求して難解だが、素材となる映画を結構観ていると、その主張は時に、評しぬけするほど単純に思える。
内包はクラスを指定し、そこに属さないものを否定的に措定する。外延を構成する個物の一つ、一つは、内包自体でありながら、内包を否定する例外足り得る。したがって外延と内包の双対性は一つの概念の別な表現なのではなく、潜在するものと実現されるものの双対性である。これを可能なものと実現されるものの対比とみるとき、双対性は不可能となる。無理を承知で、完全に一致したものとして具体的にモデル化するなら、部分であり全体である入れ子構造、フラクタルが現れる。それは仏陀の微笑の過激な実体化であり、それによって動勢は失われる。バシュラールの主張する否定の哲学を、内包に適合した外延主導で実体化するなら、時間は捨象される。ただし本書は、この時代に、明確にフラクタル的概念装置を提案するバシュラールの先進性をも示しているといえるだろう。
ドゥルーズと九鬼周造の親和性を論じる名著。九鬼の名前しか知らなかったわたしは、こうしてはいられないと、とりあえず『「いき」の構造』を買った。有限の立場にいながら、外部に言及し、外部との邂逅=偶然を受け入れるしかない「いま・ここ」において、起源(一回性)の反復である生成=存在が実現し、永劫回帰が開設される。わたしは、一見逆説的ながら、可能性と必然性の混同としての仏陀の微笑に、内部観測者の偶然=予期が見出せると思っている。それこそが生命の理論の新たな転回になるはずだ。
仏陀の微笑は、九鬼において最も簡明に導入されると言ってよいのではないか。例えば必然として「AはAである」を持ち出す。「猫は猫である」は、目の前の三毛猫は猫という動物であることを意味するだろう。ここには外延と内包の比較があり、内包が陰に指し示す否定を、個物として受容される可能性が潜在する。九鬼は、それを、なぜ茶柱がめでたいか、において例示する。すなわち「茶は茶である」の茶において、湯を注ぐと沈む茶葉であることが意味される。しかし茶は茶葉に限らず、茶の茎をも許容する。だから注がれたお湯に沈まず、浮く茶柱の偶然が「茶は茶である」の必然に潜在することになる。これはほんのさわり。
表紙の猫がラブリヨリだ。ちょっとアバター顔(目が離れている)で、思わず買ってしまった。
電話がなって往診に出向いた外科医の頭蓋を、ちょうど頭上で釘を打っていた大工のハンマーが落下し打ち砕く。電話→往診、汗→ハンマーの落下という異なる因果系列が交わるところに偶然があるとモノーは唱える。それは因果と因果の交わるところに現れる縁である。つまり偶然とは、出会いであり邂逅である。ただし重要な論点は、この邂逅の表現だ。出会いを見渡せるくらいなら、それは必然となり、突然降って湧くものなら、それは不連続なだけだ。出会いはもちろん突然で予測できない。しかし世界の内部から見るものは、常に能動的に予想外を待ち構え、いかなる不連続に対しても受け入れざるを得ない。それこそが偶然の意味である。モノーは偶然の内的描像へ辿り着いているだろうか。レスラーは、そうではないと言っている。
複雑系の科学が提示した概念で、最も重要なものの一つが、自己組織臨界現象あろう。その最初の提唱者にして、最も簡明なモデルを掲げたバクは若くして亡くなった。そしてもう一人の自己組織臨界現象の提唱者が、このカウフマンである。臨界現象とは、カオスと構造を対立させる図式において、両者の境界に位置づけられる現象のことだ。カウフマンは、生命とは単なる乱流やカオスではなく、結晶のような過度な構造でもなく、両者のはざまに現れる現象だといる。それは、しかし、構造とカオスを対立させる図式において当然の帰結だ。また、自己組織というのは言い過ぎであり、どうして構造とカオスの境界という極めて稀な現象が現れるのかに対しては、「進化の結果であり、自然淘汰の結果」ということになる。さて、この描像は、ドレツキのそれに一致する。対象(外部)に表象(内部)を対立させ、両者の接合として構想される一人称的こころは、カオス(外部)と構造(内部)を対立させ、その接合部で構想される臨界現象と完全に一致する。また、その起源を進化に委ねる点も、実は一緒だ。構造自体に動勢を潜在させ、生成=存在を構想しない限り、起源問題は常に後からやってくる。
仏陀の微笑は、以上のような描像を突破するための道具立てなのである。
今年亡くなった梅棹氏の自伝である。自然科学の分野では、しばしば、「それは単なる思い付きに過ぎない」といったように、思い付きを揶揄する風潮がある。しかし、外部へ広げることと、内部へ沈潜することとは、思考の、互いに独立な両輪であり、生きることの両輪ですらある。生物で最も重要な生存戦略の一つが、その場に留まってその場を活用し尽くす(exploitation)か、その場所に見切りをつけ、他の場所を探索する(exploration)かのバランスにあるのだから。思いつきはいけない、という言い回しには、科学とは知の集積の場であって、集積されたこの場所を十分調べ尽くせば、自ずと次の一手は見出され、科学は妥当に拡張される、という思想が含まれている。それは、計算効率のみを追求するexploitationの思想である。そもそも科学や思想は、閉じておらず、外部に開いているから、拡張される。絶えずexplorationが発動し続けている。梅棹氏ほど、思いつきでいいのだ、と主張する学者はいない。梅棹氏のような大人がいないと、若い人は萎縮してしまう。
トークンとタイプ、個物と一般を接続しようという試みは、常に、個物における、大き過ぎるものへの適合という形をとる。日本人としての自分がキリスト教を自らのものとしていく過程を、だぶだぶの衣服を体に合わせていく過程と評した遠藤氏の感覚は、両者の動的調停をどのように理論化するかと悩むものには大変参考になるだろう。もし存在者が、とりわけ生命が、個物と「個物を個物足らしめる普遍」の調停において現象するというなら、存在は生成であり、起源の連続として成立する。それこそが、あまりにも自明で平凡な、存在者=生活者の在りようなのだ。起源することこそが劇的な、考えるべき問題であり、ひとたび起源すればあとは単に構造が保存されるだけだ、と考えるなら、劇的状況にしか論じるべきテーマは見当たらない。そう考えることになるだろう。遠藤氏の中間小説は、劇的状況ではなく毎日の生活者の中に、起源を、個物と一般の動的調停を見出し、ユーモアを交えることで、手法としても生成=存在者のごくあふれた様相を際立たせる。おばかさんや、へちまくんとして描かれる者は、生成=存在を実現するための調停を駆動する、媒介者=仏陀の微笑に他ならない。
種村季弘や開高健、吉田健一、玉村豊男、古波蔵保好、池波正太郎、内田百閒、荻昌弘、森須滋郎など、食べ物に関するエッセイはかなりの数を読んだが、本書は金儲けの神様と言われた邱永漢氏のエッセイである。経済とは、ここでの価値を、あそこでの価値と絶えず比較し、一致させることで生じる運動だ。一人称的「これ」が「それ」としても指しし示される二人称においてのみ、経済は論ずることができる。貨幣は、一致し得ない「これ」と「それ」を、ぴったり接続してしまう(=決して一致しない)ような装置=仏陀の微笑である。この事情は、味覚に同じだ。目の前にあるミカンを食べ、まさにミカンとしてうまいと感じる。それは、個物それ自体とミカン一般の両者を、ぴったりと重ね合わせられてしまう(=決して一致しない)ことで現象する、感覚だ。ここに経験される味自体は個物であり、それにミカンというラベルを貼るというだけなら、この味(経験)がミカンのものである、と認知されるだけで、ミカンの味、ミカンとしてのおいしさは現象しない。味とは、その現象自体が仏陀の微笑なのである。
味覚経験は、最も端的な現象する仏陀の微笑であり、味覚経験の優れた文章表現は、仏陀の微笑の優れたモデルである。エッセイに限らず、食べ物のうまい描写を見つけては、何度も繰り返して読むわたしだが、本書中にある、紙芝居作家の加太こうじ氏の文章(「紙芝居の菓子類」と題されたエッセイ)は、その白眉であると思う。"紙芝居屋は伝統として、駄菓子屋で売る菓子、すなわち、芋ようかん、水ようかん、ねじりん棒などのおこし類、花林糖、有平糖、棒にっき、蒸しパンの一種の味噌松、塩せんべい、かき餅の類、固形ラムネ、水物としてはラムネ、ミカン水などは売らなかった。"この単なるお菓子の羅列(しかも紙芝居屋の菓子ではない)を、寝る前に何百回読んだかわからない。わたしには、紙芝居のお菓子体験はなく、何らノスタルジーを感じるものでない。しかし体験以上の体験が、読むこと自体に生起する。
あわせて、「東京惣菜資料館」(神吉拓郎)が素晴らしく、やはり読むことで生じる独特のリズムが、味覚体験そのもののようなリアリティーをもって立ち上がる。
平安時代に仏や宇宙人が活躍する、花輪和一のマンガの中にあって、一見端正な歴史絵巻である。鎌倉末期、主人公である童は、「じむぐり」が体内に入った両親を治すため、潮風のあたった薬草を求め、鎌倉を目指す。戦や勝手な大人の思惑を遠景のように受け流し、場合によっては殺人を犯し、回り道をしているようで、実はひたすら鎌倉に接近する。花輪氏の刑務所体験、「刑務所の中」や「刑務所の前」を知っている読者は、彼が異常な視覚記憶の持ち主で、いわゆるヴィジュアル・シンキングをする者だと感じるだろう(スケッチを許されない刑務所の風景を、出所後記憶だけを頼りに精確に描いてみせている)。それは、タイプとトークンという区別の中でトークン的思考であり、exploitationかexplorationかと問われれば、閉じた対象、閉じた領域に固執するexploitation型の思考法である。そのような作者であっても、トークン一辺倒ではなく、exploitation一辺倒ではない。部分への執着を時として解放するものが、平安時代に現れる宇宙人や円盤であり、「刑務所の前」の現代に突如脈絡なく現れる、平安時代の童である。そのような花輪氏にあって、本作は、タイプ型の思考、exploration型の思考、外部への解放が、直接、探索、旅となって描かれる稀有な例なのである。
山間の、温泉への路地の風景や、街角のY字路、そのような風景体験が、一個の絵となって現れる。山村の道をとぼとぼ歩いていると、オロナミンCのホーロー看板を掲げた古い民家、朽ち果てつつ農機具を壁に立てかけ、丸い石で組まれた石垣だけが妙に整然とした古い民家などに出くわす。そういうとき、カメラを持ち歩いているわけではないわたしは、「自分は、いま・ここに、こうして山の匂いを感じながら、山の冷気を吸い、永遠にこのままであるかのように存在しているが、いつかこの風景を、額に縁どられた一枚の絵の様に思い出し、"確かにあのときは、いずれこの・いまを過去として感慨にふける未来が、やってくるのだろうと思っていたな"と感じる未来が、本当にやってくるのだろう」と思ったものだ。そういう感覚をもったときの風景は、実際遠景まで明晰な写真のように記憶される。つげ氏の描く1コマ1コマは、夢の風景を含め、そのように記憶されたことを思わせる。
かくれた能力を引き出す方法、という副題はミスリードである。本書は自身も自閉症スペクトラム(症状の程度が連続的で様々であることからこう呼称する)をかかえる筆者が、自閉症者のために、コミュニケーション不全や感覚刺激をやわらげるための対処法を示す、ハウ・トゥ本であるからだ。脳を計算機にたとえ、部分に閉じて計算するプロセッサと、部分間を繋ぎグローバルな情報伝達を実現するケーブルの対比を導入し、自閉症とはケーブルの欠如もしくは不足であると述べる。それは、タイプ的思考・外部への探索的接続思考(ケーブルの発達した計算)より、トークン的思考・閉じた領域へ固執する思考(ケーブルが不足した計算)へ力点を置いた思考様式といえる。本フェアの中心概念、仏陀の微笑は、タイプとトークンの齟齬を統合した具体的個体ではなく、齟齬を有しながら渾然一体となった動勢である。ただし、いずれに力点が置かれるかには程度の差異があり、そこにスペクトラムが認められる。自閉症スペクトラムとはそういうものだ。
自閉症スペクトラムに失われるのは、共同注視(他者と一緒に対象に目をやる)だという。わたしが、潜在性と必然性の間で構想される仏陀の微笑を、群れのモデルにおいて定義した相互予期は、まさに共同注視としての社会性の実装なのである。
「じんぶんや」とは?
こんにちは。じんぶんやです。
2004年9月、紀伊國屋書店新宿本店に「じんぶんや」という棚が生まれました。
「じんぶんや」アイデンティティ1
★ 月 が わ り の 選 者
「じんぶんや」に並ぶ本を選ぶのは、編集者、学者、評論家など、その月のテーマに精通したプロの本読みたちです。「世に溢れかえる書物の山から厳選した本を、お客様にお薦めできるようなコーナーを作ろう」と考えて立ち上げました。数多の本を読み込んだ選者たちのおすすめ本は、掛け値なしに「じんぶんや」推薦印つき。
「じんぶんや」アイデンティティ2
★ 月 が わ り の テ ー マ
人文科学およびその周辺の主題をふらふらと巡っています。ここまでのテーマは、子どもが大きくなったら読ませたい本、身体論、詩、女性学...など。人文科学って日々の生活から縁遠いことではなくて、生きていくのに案外役に立ったりするのです。
ご愛顧のほど、どうぞよろしくお願いします。
「じんぶんや」バックナンバー
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【じんぶんや第67講】 郡司ペギオ―幸夫選「内側からみた偶然=仏陀の微笑」
■場所 紀伊國屋書店新宿本店 5Fカウンター前
■会期 2011年1月11日(火)~2月10日(木)
■お問合せ 紀伊國屋書店新宿本店 03-3354-0131






































