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![]() 第三回 山口勝弘
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当時僕は、ある画廊の紹介で、アルゼンチン大使館の文科担当官ご夫妻に現代美術を教える家庭教師をしていたんです。ある時、その文科担当官のメンデス氏が転勤でジェノヴァの領事館に移ることになって、そのうちお前もヨーロッパに遊びに来いと言ってくれた。 まだ海外渡航が自由化になる前で、持ち出せる外貨にも制限があった時代のことです。 イタリア語を一生懸命勉強して、「飛行少年」がやっと、生まれてはじめて飛行機に乗ったんです。ロンドンとパリを経由して、ジェノヴァのメンデス氏のお宅に三週間ほどいて、その後、ミラノやローマを巡るのですが、同じ時にメンデス家にホームステイをしていたロシア系アメリカ人の女性が、「ヨーロッパはどこも同じでつまらないから、NYに行くといい」と言う。それもいいかもなと、所持金も少なくなっていたので、数日だけの滞在のつもりでビザをとって、アメリカに渡りました。 NYに着いて、たまたまマーサ・ジャクソンの画廊を見に行ったんです。芳名帳にサインをして泊まっていたブロードウェー近くのホテルの名前を書いたら、その晩だったかな、実験工房で一緒に活動していた舞踏家の花柳寿々紫さんからホテルに電話がかかってきた。ちょうど踊りの勉強でNYにいたんですね。「山口さん、NYにいるの!」と、日本人離れした女性と友だちになったから、三人で食事をしようと誘ってくれた。そうして知り合ったのが、小野洋子(現 オノ・ヨーコ)さんです。 小野さんに数日で帰るというと、「いまNYは面白いから、お金が続く限りできるだけいなさい」と、彼女のアパートの近くにあったホテルを紹介してくれた。「ハドソンリバーサイドホテル」という名前だけは立派な、ひょろひょろっとした、いまにもポキンと折れそうなホテル。二週間前払いで週十四、五ドルだったかな。小野さんは彼女のアパートの鍵も貸してくれてね、「私がいなくても、いつでもここを使っていいですよ」とも言ってくれた。なかなか面倒見のいいところがあるんですよ。 当時、小野さんはロバート・モリスらと、後に有名になる「フルクサス」というグループを結成したばかりのころで、活動資金を集めるためにリヴィングシアターで「イヴェント」をやると言う。僕はこの「イヴェント」という言葉をはじめて聞いてね、なにをやるのかが分からない。そうしたら小野さんが、「ジョン・ケージやいろんな作曲家がピアノをさまざまに否定してきた。しかしピアノを実際に上下ひっくり返したのはだれもやっていないからやってみる」と言うんです。実際、すごい音がしましたよ、鍵盤がひっくり返るからね。 それだけでは「余韻がないからピアノの四本の脚から音を聞かせたい」と、僕が貸したメキシコ民芸の土笛を、ピューと鳴らした。僕は、当時、やはりNYに来ていた荒川修作君と二人で見に行って、持っていたカメラで写真を撮っていた。ほかに記録していた人がいないから、結果的には貴重な資料になりました。小野さんに言われて、最後には、荒川君と舞台めがけて、レモンを投げるという形でイヴェントに参加もしました。 これは当時の僕にとって、「へえ、こんなことをやっているのか」とある種、カルチャーショックでしたね。ようするにヨーロッパで見てきた美術館に収まっている芸術とは全然違うものをやりはじめているな、「いまNYは面白い」と彼女が言った意味にそこで合点がいったんです。同時発生的に、ハプニングやイヴェントを、芸術家があちこちでやりはじめた。ポップアートが生まれたころでもあり、ちょうど転換期に居合わせることができたこと、はじめての海外旅行の最後に小野さんと出会ったことが、その後の僕の人生を変えたくらい大きな衝撃でした。新しくものを見る目がそこで生まれた。 NYはそれから何回も行っているけど、あのころが一番面白かった。実験工房をはじめたころに、読売新聞社主催の「アンデパンダン」という無審査の展覧会に出品していたけど、当時のNYは、街それ自体が芸術家にとっては何をやっても認めてくれる場所だという感じがした。 小野洋子が夢想のなかのイヴェント指示書(詩示書)ともいえる『グレープ・フルーツ』を出したのはそれから三年後のことです。
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